Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

1/18「フランケンシュタイン」日生劇場

 

”怪物”とは何か。

 

まず、間違えてはならないのは「フランケンシュタイン」とは、怪物の名前ではないということ。
有名な映画の影響か、『怪物くん』の影響か、私はてっきりフランケンシュタインは頭にボルトが刺さったモンスターのことだと思っていた。
実際は、この怪物を造った人の名前がヴィクター・フランケンシュタインという人であった。

 

本作でも、主人公のビクター・フランケンシュタインが怪物を産みだしている。

では、怪物とはなんだろうか。

怪物は、怪物であったり化け物であったり、さまざまな呼ばれ方をしているが決まった名前はない。
名前”さえ”ないのだ。


ちなみに私が観た回は
ビクターandジャック:中川晃教
アンリand怪物:加藤和樹

 

1幕は、生命創造の研究をしているビクターが戦場で軍医アンリに出会い、処刑されそうになっている彼の命を救う。そこから友情が生まれ、二人は親友となった。ビクターにとって初めての心からの理解者であり友人だった。
しかし、ビクターが関係する殺人事件の濡れ衣を自ら被りアンリは処刑されてしまう。君以外この研究はできない、君の為なら死んでも構わないのだと。ビクターは、その首を盗み親友の命を再生させることを誓う。
ところが、雷に打たれ命を得た男はビクターの知る親友ではなく、アンリの頭を持つ継ぎ接ぎだらけの"怪物"だったのだ。
赤子同然の知能でありながら怪力を持つ怪物は故意ではなくビクターを襲い、そして、ビクターの執事を殺してしまう。ビクターが怪物を銃で撃ち殺そうとするも、怪物は窓から飛び出して逃げて行った。

 正直、この一幕を観ていまいち楽しめずにいた。
韓国ミュージカルというのを今回初めて観た。なるほどパワーがある、ヨーロッパやBWのミューと並んでやろうという気概も感じる。
でも、曲も脚本も今一歩だなあという印象。他の作品を観ていないから何とも言えないけど、日本も含めアジアはミューではまだまだだなあと思った。
とはいえ、これだけやってやろう!というクリエイターがいるのは凄いことだと思う。しかし、どうにも一幕は退屈で曲は難解すぎて耳に残りにくいし(エリザやロミジュリは偉大)、ビクターが殺人を犯すくだりとか雑!!
それを吹き飛ばすほどの魅力のない曲はどうなのか。
おいおいこれは二幕大丈夫か?楽しめるか?と思いつつの二幕。

 巷では一幕が人気のようでしたが、私は二幕の方が断然好きです。

 二幕は、怪物となってしまったアンリの見てきた人間の世界が中心となって構成されている。
一幕からすでに三年が経っておりビクターはジュリアと結婚していた。
平穏な生活の中でもビクターはずっと怪物への恐れが拭えずにいた。
そして、とうとう怪物は戻ってきた。ビクターに復讐するために。
創造主よ──怪物は語る、三年の間に自分が何を見てきたのかを。
人間がどれだけ醜いのかを。

怪物は、鉄のベッドで生まれビクターに首を絞められたことから記憶が始まっている。
言葉も知らず、人に追われ、寒さと空腹と、孤独に苛まれていた。
闘技場を営む夫婦に拾われ、そこでカトリーヌという下女に恋をする。
しかし、カトリーヌに裏切られ更に彼女の悲惨な姿を目にしてしまう。
人間の醜さを知った怪物は、その闘技場に火を放つ。
最後には、北極と言う地でビクターとアンリが死んでしまうというラスト。

 二幕、特に前半が楽しかった!!
見世物小屋や闘技場、そして人間の汚れた欲望。そういうのがぎっしり詰まった二幕前半凄く好みです。

そして何より加藤さんの怪物最高でした。
この人はおそらく、本人がどう演じようと基本的には”品よく”見えてしまうタイプだと思う。パーソナルスタイル的な問題で。
同時に、悲劇的な展開が大変似合うタイプでもある。
ただいるだけで、目を伏せれば物憂げな表情に見える。役者としてはとても画になるタイプで舞台に立つのに向いてる人だと思う。くわえて、声は甘く低く、それも若々しく青年のような甘ったるさじゃなくて、大人のセクシーでロマンチックな声。
何気にミュー界には、特に若手にはあまりいない影のあるタイプ。
とは言っても、歌声は少々本格ミュージカルにしては硬いというか音域もあまり広くないし、柔軟な歌声を持つアッキーと並ぶにはきついのでは?と思っていた。

 

正直、一幕では割とその印象から変わらずでした。
アンリというキャラクター自体は、エキセントリックで癖のある生粋の天才中川ビクターを見守り受け止めることのできる落ち着きを持っている。
科学者であり、ビクターと同じ研究への欲求を持っていながらも神への領域に入ることを理性と良心で踏みとどまった人。
とろけた声で「君の瞳に恋をした」なんて歌い、ビクターのために死んでいく姿は、さすが横に立てばどんな女優も可愛く見せてしまう加藤和樹様…!という感じで中川ビクターも可愛らしく見えた(笑)
しかし、怪物と呼ばれる存在になると一変、腰布一枚で鉄のベッドの上をのた打ち回り、生まれたての赤子のような存在になってしまう。母親と遊ぶ子どものように無邪気ににこにこと笑い、ビクターにじゃれ付く。この人、こんな芝居できたんだ!!と驚いた。

そして、怪物が闘技場に拾われカトリーヌに恋をするシーン。
ようやく言葉を覚え始めてきた彼が、下女カトリーヌとする会話。

「あなた、私をクマから助けてくれた!」
「クマ オイシイ(にこにこ)」

 こんな姿見たことない!!と、私にとってはなかなかの衝撃でした。

鉄のベッドで生まれ、自らを産みだしたビクターには怪物扱いされた彼が、初めて心を通わせた人間がカトリーヌだった。
下女である彼女は人間から酷い仕打ちを受けているため「あなたは人間じゃないから怖くない」と言った。
「私、北極へ行きたい!そこには、人間がいないんだって!」
いつか、北極に二人で行けたら…二人のデュエットがとてもロマンチックで美しかった。
けれど、それを闘技場の主人に見つかってしまう。女主人は「色気づいたか?」とカトリーヌに暴力をふるう。

 カトリーヌもまた、可哀想な女だった。
怪物と心を通わせたせいで主人の手下に襲われ、ボロボロになっているところに「自由にしてやろう」とそそのかされる。
その条件は怪物に毒を飲ませること。
カトリーヌは迷いつつも決断する。この時の歌を聴いた時、私はこの作品を観に来てよかったと思うくらいの価値を感じた。
音月さんを見るのは宝塚最後の仁以来で(怪物にわかりやすく言葉を話しかける時が仁先生がおばあちゃんにワカメを勧めている時を思い出した笑)
まだ女性としての音域は狭いところが惜しいけど、力強い歌声でカトリーヌの心情が痛いくらい伝わってきた。父に犯され母に売られ、服も心もズタズタの自分。それでも生きたい。
明日は自由になって、人になれる。そうすればもう誰も自分に唾は吐かない。人になるため、カトリーヌは怪物に毒を盛ることに決めた。
『誰かが足を洗った水で 喉を潤した』という歌詞があまりに衝撃でハッキリ覚えている。
彼女は怪物を裏切ったけれど、それでも生きたいと叫ぶ彼女を責める気にはなれなかった。

 このことは女主人にバレ、カトリーヌは自分をそそのかしてきた男にも見捨てられてしまう。
彼女は女主人によって、酷い殺され方をするだろう。
怪物から視線を向けられると「こっちを見ないで化け物!!」と返した。
ここで、少しの違和感がある。

その違和感がわかるのは、散々痛めつけられ焼き鏝を当てられた怪物が『俺は怪物』を歌った時。

 まずは、その歌の上手さに驚いた。歌よりも芝居で魅せる人というイメージだったけど、今回は芝居も歌も以前(レディベス)よりずっとこちらに力強くなっていて本当にびっくりした。ボイトレをして音域を広げたと言っていたけど、すごい進歩だと思う。
怪物の心の叫びと悲痛なシャウトに心を奪われた。

 そして、さっきの違和感の理由。
怪物には名前がない。彼の創造主であるビクターは彼をアンリと呼んだけれどアンリの頃の記憶がないと言う彼はアンリではない。
そして、怪物と呼ばれ、カトリーヌには化け物と呼ばれた。

そんな”怪物”だったり”化け物”であったりする彼は、ひとりぼっちであることに寂しさを覚えている。
彼は確かにルンゲを殺したかもしれないが、故意ではなく事故のようなものだった。自分の身を護ろうとしただけなのだ。
『血は誰かの血 肉は誰かの肉』
では、自分はなんなのか。人間でもなく、ただ気まぐれに作られただけの何か、ひとつの命なのに。
ビクターの自分勝手で生み出されただけなのに。普通の人として生まれたならば、親からもらう最初のプレゼントになるはずの名前。彼は名前さえ、生みの親からもらっていないのだ。
カトリーヌをクマから助け、言葉を話し、心を通わせ、孤独を嘆く彼は怪物か?化け物か?

 人が勝手にそう呼んだだけではないのか?

 ”怪物”からしてみたら、自分を殺そうと銃を向け、戦わせ、面白半分に拷問してくる人間の方がよっぽど怪物だ!

そういうことなのだと気付いた。
この作品はメインが一人二役で、ビクターは闘技場の女主人の旦那であるジャック、アンリは怪物、ジュリアはカトリーヌ…というように。
解釈として、人は環境が違えばまったく違う人間になってしまうということなのだろうと。
私は特に、ジュリアとカトリーヌを同じ役者が演じるというところに意味を感じた。

音月さんは、(その解釈を踏まえて演じられるほど)自分は器用ではないから別人として演じると言っていたけど、もちろん別人でいいのだと思う。
でも、両親に大事にされお嬢様として育ったジュリアも、もし両親に捨てられ虐げられながら生きてきたらカトリーヌになってしまうのかもしれない…という、もしもの可能性が、同じ役者が演じることによって伝わってくる。
カトリーヌだって、怪物と心を通わせた優しさと人間らしさを持っているのに、それでも良心を捨て怪物を裏切った。生きたいから、現状を変えたいから!
生きたい抜け出したいと思わざるを得ないその環境が、彼女を怪物にした。

 つまり、誰しもが”怪物”になってしまう要素を心に持っている。

 そういう意味での、一人二役であり、怪物が名前さえ持たない意味なのだろうと思います。

 二幕はその後、怪物の復讐劇が始まる。
演出として一番好きだったのは、ビクターの姉であるエレンのシーンです。

濱田めぐみさんは、この作品で初めて見たんですけど優しく包容力のある歌声と、シャウトまでする力強さとのギャップ、使い分ける技術に驚いた。
エレンが濡れ衣を着せられ、絞首刑にされてしまう場面。
死を迎えることへの「さよなら」と、幼い頃留学をするために姉弟が別れることになった時の回想の「さよなら」を掛けている。
弟を想う優しい歌声と「今度あなたに会えたら 私がぎゅっと抱いてあげるから」という歌詞。
エレンの深い優しさと愛が伝わってくるのと同時に、死んでしまう彼女にはもう二度と会えない「今度」などないという矛盾があまりに切なく哀しい。
全てが最高で、私も両隣も泣いていた。去っていくエレンに「行かないで 姉さん!」と初めて子どものようになってしまったビクターにも泣けた。

 この後、ビクターは姉もアンリと同じように生き返らせようとする。
このあたりからは「え?ビクターまた!?同じことするの!?」って感じで、いまいち入り込めず(笑)
ジュリアの死のあっけなさとか、リトルビクターと怪物のシーンとか…観客の解釈に委ねすぎのような…。
ただ、怪物が北極に行ったという事実はなんとなく切なくなった。

 演出の板垣さん(今回は板垣さんの演出目当てでもあった)も言っていたけど、韓国ミュージカルは脚本が甘いということなのかもしれない。
でも、原作のテーマも良いし、アンリというオリジナルキャラクターも設定も良いと思うので、もっともっと練り上げたらすごく良くなりそうな気がする。

 そして何より、キャストの熱演が良かった。怪物のことばかりに焦点を当てすぎたけど、アッキーのビクターの天才っぽさが好き。
アッキーは歌うことがあまりに自然だから、台詞を喋っているのか歌っているのか、わからなくなりそうなくらい。突き抜けるようなハイトーンボイスは、定期的に聴きたい。

 このミュージカルを観たことで、原作が気になって今読んでいるけどとても面白い。舞台ではわからなかったところも少し補間されたり、逆にビジュアルイメージがあるからなんとなく伝わってくるものがあったり。ただのモンスターパニックだと勘違いしていた自分を殴りたい。わくわくして、ドキドキして、ロマンにあふれていて、切なさと人間の探究心や欲求の罪深さを感じる。

私は自分が人造人間とか人体実験とか錬金術とか、現実的に考えたら「え?」なSF設定が好きなのだと知った。ライチ光クラブも似たようなものかもしれないな…。

 

文句も書いたけど、CDが出たら買うし、このキャストで再演があったら絶対に観に行く。

 

12/30「刀剣乱舞 虚伝 燃ゆる本能寺(再演)」銀河劇場

 


初演は配信で初めて見て興奮して、DVDは何度も観た。
再演は絶対に生で観るぞと意気込んだ。
映像と違って、全体を見るのも双眼鏡を使って一点を見つめるのも自由。
初日から話題になっていたように初演とは少しだけ、けれど大きく意味のある演出や脚本の変更があった。
気になる台詞も、派手になった殺陣も、見たいところはいくらでもあった。
それなのに、どうしてもへし切長谷部から目が離せない瞬間が多すぎた。
彼を見ながら、何度も息を飲んだ。

へし切長谷部という刀剣男士について、そこまで深く考えたことはなかった。
一番好きなキャラクターではあるし、刀について書かれている本も読んだりしたのでそれなりに来歴は知っている。二次創作も読む。
でも、刀剣乱舞はゲームもメディアミックスもふわっと楽しんでいたところがあるし、刀剣男士それぞれ本丸ごとに印象も違うとなるとキャラクターについて深く考えても意味がないような気がしていた。
だから、私の中の『へし切長谷部』というキャラクターはそこまで固まっていないし、よほどのことがない限り解釈違いということもない。
ゲームでも花丸でも刀ステでも、どんな長谷部もだいたい好きだ。

それが初めて、この”とある本丸のへし切長谷部”について色々考えることになった。
ハッとさせられたその瞬間の感情はうまく言葉にできない。理屈ではない部分で、どうしようもなく胸が震えた。

まず、初演と再演で芝居自体がだいぶ違っていることに驚く。
初演のDVDは何回も観ているから、和田部の台詞回しや声のトーンは(その一公演分だとしても)頭に残っているし、映っている限りは表情もよく覚えている。
だからこそ、再演を観てその違いが明らかだった。

織田の刀に対する声色が優しくなっている。
「俺の中の信長を知ってどうする」
宗三に対するこの台詞、初演の時はもう少し突き放すような、それでいて自嘲も込められているような言い回しだった。
それが、柔らかく優しい諭すような声色になっていた。
そしてこの時、宗三に言いたかったのはおそらく不動に向けた

「俺たちにではなく、自分の心に問え」

この台詞を、和田君は一番好きな台詞としてりんたこで語ってくれた。
だからきっとこの台詞こそが、和田君が歩んできた刀ステ本丸のへし切長谷部なんだと思う。
このとある本丸のへし切長谷部はきっと、そうやって自分の心に問いかけてきて今があるのだ。
和田君は、個人的な解釈として長谷部も不動のように『歴史を変えたい』と考えたことがあるのではないかと語ってくれた。
自分だったらそう思う、とも。
けれど、同時に「主命とあらば、なんでもこなしますよ」という長谷部を象徴する台詞のとおりに今の主のことも想っている。(若干意訳してます)

和田君がそうしてたくさん考えてくれて辿り着いた解釈の先に、不動を見るあの表情がある。
明智光秀を殺せば信長は死なない、それをわかっていながらできずにいる不動を見る表情。
これを劇場で見た時は胸が詰まるような思いがした。なんて顔をするんだ、と思いながら泣きそうになったのを覚えている。
もし不動が光秀を傷つけるようなことがあればすぐに対処できるように、と刀を抜いて構える薬研と長谷部。ブレずに真っ直ぐ不動を見据える薬研とは対照的に、長谷部の表情は苦しそうで手に力が籠るのか剣先が震えていた。
彼の中には『不動を止めたくない=信長を助けたい』という気持ちがほんの僅かだとしてもあるんだ、と思うと堪らなかった。
和田君の「歴史を変えたいと思ったことがあるのではないか」という解釈がここで生きている。
信長を憎む気持ちと同時に、顕現したばかりの頃の自分と重なる不動の考え方や行動への同族嫌悪のようなものが彼の中にはあったのかもしれない。

そして、信長が自刃して果てるその瞬間。
初演ではただ見つめるだけだった長谷部が、悲痛な表情を浮かべて首を横に振り、信長に向けて手を伸ばす。

へし切長谷部という刀は、人の身や心を得るにはなんて生きづらそうな刀なんだろう。

信長に対する思いにしても、長政様に対する思いにしても。
(おそらく)大好きだったのに下げ渡されたから、憎む。
大好きだったのに置いて逝かれたし共に逝けないから、忘れる。
過去のことでさえ、そんな不器用で極端なやり方でしか自分を保っていられない。
物である彼らに人間のような生死の概念は元々ないはずなのに、しょせん自分は物で相手は人間だからと割り切れない心の豊かさが彼自身を傷つけている。
不動のように表に出すことができたら違うのかもしれないけど、この刀はもっと複雑に考えることができる分損だ。

人は誰であっても死ぬ、信長であっても同じことだと不動に冷たく言っていたけれど、長政様の死に強く心を痛めていた長谷部だったからこその重みのある言葉なんだろう。
きっと、彼を作った人、主だった人。
それぞれが、へし切長谷部に対してそういうたくさんの想いを込めて扱ってきたからこそ、付喪神として顕現した彼がこんなにも人間らしい心を宿しているのかもしれない。

本能寺の変では、すでに黒田家にあった長谷部にとっては元の持ち主である信長の死を目の当たりにするのは本丸に顕現してからが初めてということになる。(刀ステ時点での出陣回数は不明だけど)
信長の死に辛そうな表情をしていた彼が、気持ちを切り替えて光秀を護るために戦う。

「主に仇名す敵は切る!」

と、やはり今大事にすべきは現主なのだと理解している。
歴史を変えたい、という気持ちを振り切った彼がこうして真剣必殺している。

そして、明智光秀の言葉。
「あのお方に必要とされたかった」
「あのお方に見捨てられるのがこわかった」
この言葉にハッとするような表情を見せる長谷部は、きっと光秀の中に自分と重なるものを見つけた。
和田君自身も、長谷部には不動や宗三、薬研とはまた違う明智光秀と通ずるものがあって、だからこそああいうお芝居になったのだと言っていた。
他の三振りには直臣でもない者に下げ渡された長谷部の気持ちはわからないだろう。
不動が長谷部に対し「ちいせぇな~」なんて言うシーンがあるけど、可愛がられていた蘭丸の手に渡った不動に何がわかる?と思ってしまう。
その中で、若い蘭丸と比べて老いていくことを恐れ、ただ必要とされたかっただけだと願う光秀に長谷部は一瞬でも自分を重ねていたはずだ。
和田君は初演よりも人間らしく演じたい、と希望していたと語ってくれている。どう演じるかのプランを立て、そしてあとは舞台上で生まれてくる感情のままに。舞台中はいろんな感情が入ってきて、終わった後は身体とは別の部分でとても疲れていたと。
それだけの熱量を、想いを込めて演じてくれたのは観ているこちらにもしっかりと伝わってきた。

刀ステ長谷部の背景には、彼が刀として背負ってきた歴史、本丸に顕現して肉体を得てからの葛藤や変化、そして優しさが見えてきてとっっても嬉しい。
へし切長谷部を好きでよかったとも思うし、和田君が長谷部として歩んでくれて本当に良かったと感謝でいっぱいです。

和田君は、もっとキャッチ―な芝居をするイメージがあった。
キャラクターを捉えるのが上手だし、2.5次元向きだなと。
原作ファンの喜ぶところを抑えつつ、ギリギリのラインを攻めるのも上手という印象だった。

2.5次元で上手だなと思う役者さんには、私の中で二通りあって
ひとつは、キャラクターが原作から出てきて三次元にいるかのように演じるのがうまい人
もうひとつは、キャラクターが現実を生きているように演じるのがうまい人
キャラが三次元にいるのと、現実に生きているというのは似て非なるものだと考えている。

どちらが良いということはなく好みの問題で、和田君は前者のタイプだと思ってた。

でも、今回のへし切長谷部を見てイメージが変わった。
こういうお芝居をするんだ!!と、驚かされました。
演目全体のことにしても、キャラクターのことにしても、深くまで自分なりに考えてそのうえでプランを作りその時その時を生きているんだなと思うと、嬉しい。
和田君は「演じました」ではなく「歩ませて頂きました」と言うけど、それも上っ面だけじゃなく中身が伴っている。
その人物がこれまでどういう人生を生きてきたか、が伝わってくるお芝居をする役者が好きなんだけど和田君もそうなのか。
これは、2.5次元以外での和田君も見たくなってしまうな。
今まではただ「可愛いな、かっこいいな」だったのに本格的に役者として気になってしまうと、これはまた推しが増える。

もちろん、長谷部や和田君だけでなく、他の人もそれぞれの思いを抱えて演じていたのが強く伝わってきました。
それは座組全体を通してもそうで、今回メインは新キャストが二人いるけど仲の良さや信頼がこちらにまで届いてきて和みました。
末満さんがキャストを信頼しているからこその難易度の高い殺陣も、派手で見応えがあってエンタメ感が増していて楽しかった!
殺陣が長すぎると飽きるし、短いと物足りないけど、末満さんとはそのあたり相性がいい気がしています。

荒牧くんは元々殺陣が綺麗だけど、今回はブログで語ってくれたように印象に残る技もあって改めて凄いなと感じた。
いち兄と鯰尾、廣瀬くんと大志くんのコンビネーションも良かった。

宗三ヒデ様の踊るような殺陣はやはり生で見ることができて良かった…。
ダンスがうまいし手足がしなやかだからか、ひとつひとつの動きがステップみたいで、その流れるような動作が宗三のイメージに合ってる。

鶴丸の健人くんは、染様の鶴丸があれだけ良かった分どうなる?と思ったけど、違うタイプの鶴丸を演じているのを見ておお!となりました。
染様の鶴丸はまさに「年の功」っぽいズルさみたいなものがあったけど、健人くんはもっとトリッキーでマジシャン的な掴みどころのない雰囲気があった。


私が見た回は軍議がきんつばミュージカルだったり(笑)
不動と客席のやりとりだったり、紅白戦で見せた燭台切の長谷部への挑発の仕方だったり、最後の鶴丸の山姥切への無茶ブリだったり、笑いもいっぱいありました。

興奮しながら観ていたのでところどころ記憶が飛んでいるけど、とにかく楽しかった。
観に行ってよかった、観に行けて良かった。

織田信長ほど有名でロマンのある武将はいないと思うし、そのうちひとつの”虚伝”を見ることができてよかった。
やっぱり、戦国武将好きだ。
『虚伝 燃ゆる本能寺』は終わってしまったけど、また次があると思うとうれしいです。


まずは、チケ取りの陣にて勝たなくては。

 

 

2016/12/18 『RENT』20周年記念ツアー 来日公演

 

「RENT」以上に大好きなミュージカルは、もうこの先現れない。

 今までも思っていたことだけど、やっぱりそうだと確信した。

 この作品のパワーは、何度観ても変わらない、色褪せない。

 

今日という日、今この時、そして家族、友人、

自分が誰かに向ける愛情や、自分が受け取る誰かからの優しさ、

それらがどれだけ尊くて大切なものなのか、観るたびに教えてくれる。

 

有名作品だからと何気なくレンタルした映画を観てから、すっかりRENTの虜になり映画もBW版も何回も観た。
日本版にも何回も足を運んだ。
いつか、この作品を英語のまま生で観たい、聴きたい、感じたい、と望んでいた。

 

それが、ようやく叶った!!

原曲は英語だし、もちろんそれに合わせてメロディが作られているから日本語訳で聴くよりも耳馴染みが良いし言葉遊びのリズムが心地良い。

あと、日本版は基本的には日本人(ハーフの方も多いけど)が演じているので、キャストの体格に差がない。
来日版のキャストはやはり体格差や喉の違い(特にコリンズやジョアンヌ)があって、これだなあ~~!とそれだけで感動した。

 

出来る限り字幕を見なくていいように少しだけ英語の勉強もしたけど、もうすでに何回も観ているおかげかほとんど字幕を見ることはなく。
なんて訳されているのかな?って気になって数回チラ見した程度で、あとはもうフィーリングで入ってくる。
曲や作品の持つ力が、言葉以上に伝えてくれる。
というか、ステージを見るのに忙しくてそんな暇もない!笑

 

どの曲ももちろん大好きだけど、特に二幕のHalloween~Good bye love~What you ownまでの流れがとにかく大好き。

まずContactで高まってI’ll Cover Youのリプライズで、コリンズや仲間の想いに涙が出てくる。

けれど、その後にHalloweenでみんなの関係が壊れていってしまう様が、いつだって喧嘩を止めてくれたエンジェルがもういないんだって実感してしまってもっと泣けてしまう。

今回思ったのが、今まで日本版で観ていた時よりもマークとロジャーがより親友っぽく見えたなということ。

(マークがリア充っぽくてロジャーがちょっとなよっとして見えたからかな笑)

 

だから、二人が言い合うのはとても悲しいし「but who Mark are you?」の言葉が突き刺さる。

ミミが死ぬかもしれないとか現実を突き付けたり、マークが孤独から仕事に逃げているだとか散々言い合いした後にロジャーが「I'll call」って言うのが好き。
それでも電話はする。ちゃんと仲間で友達なんだなと思える。
そうして、別れを経てからの「What you own」。

 

日本版を観ている時も、映画を観ていた時も、この歌はなんだかとても印象に残る。心に響く。
理由を問われたら、きっとうまく説明できない。
曲だけで言えば「RENT」の方が好きで、歌詞が特別切ないだとかそういうわけではないのに、どうしてか涙が溢れて止まらない。

 「I'm not alone.」

 「俺は一人じゃない」

 そう言いながら二人が眩しいくらいのライトを浴びて歌う姿に、言葉にはできない何かを感じる。

改めて来日版を観たことで、私はけっこう日本版が好きなんだなと思った。

 

 

英語で上演するものが本物で、日本版を偽物とする気はないけどどこかそんな気がしていた。
けれど、そんなに悪いものでもないなって。

 

私の母国語である日本語だからこそ、ストレートに伝わってくるものがあるのだなと。

 

母国語のニュアンスだから伝わること、わかりやすいこと。そうした環境で観劇できるのは貴重なことでもあると感じました。

 

あと、去年のマークだった村井君の芝居はとても繊細で丁寧だったのだとも。
マークにしては声や表情が堅い印象だったけど、お芝居そのものは、特に二幕は、良かったと思う。

 

そして何より、モーリーンは断然ソニンのモーリーンが好みです。
はっちゃけ具合や客席を殴るような声、そしてコミカルなMooの煽り、小悪魔だけど憎めない、みたいな雰囲気が好きです。

 

さすがに全体的な歌やダンスのクオリティそのものは事務所や役者個人の人気云々が絡みに絡み合う日本版とは違って、平均が高かったけど。
なんというか、某エンジェルの悪夢は一生忘れないと思う。
来日版を観て、ここまでのことを、この若さで(今回カンパニー全体がかなり若い!)やってのける俳優がたくさんいるんだ、
というのを知ってしまったので私の中でさらにRENT出演者へのハードルは上がった(笑)

 

 

Mark:Danny Kornfeld
→ど~~~しても、アンソニー・ラップのイメージが強すぎるんです。
なんだかちょっと冴えない(失礼)だけど、歌うと声がイメージと違ってて、ロックな曲を歌うとかっこいい、みたいな。
今回の方は、アンソニーに比べるとキラキラしていたかなって(笑)
でも、あのセーターとマフラーを身に付けるマークが見られて嬉しかったです。
La Vie Bohemeの時に手を使わずテーブルに飛び乗って横たわったのを見てすげえ…ってなりました。
ジャンプした時にチラッと見えた腹筋がバッキバキに割れていたので、なるほどと納得。

 

Roger:Kaleb Wells
→最初に見た時はなかなかゴツい方だなって思ってたけど、やっぱりいつ見てもロジャーは繊細ですね。
日本版は特に去年堂珍さんが演じていてかーなーり繊細というか弱そうと思っていましたが、正直、今回のロジャーが今まで見た中で一番よわよわでした(笑)
ミミと一緒に死んじゃうんじゃないかとハラハラ。笑
そもそもロジャーってマークやコリンズにぐりぐりやられていじられたりもしているけど、そんな雰囲気が目立ったからでしょうか。
でも、歌は安定しているしロジャーの声で良かったです。

 

Mimi:Skyler Volpe
→背が高くてしっかりした体つきで、これが本場のミミかー!ってちょっと感動しました。
あの、BW版のDVDとほぼ同じ振付の「Out Tonight」が見られたことが嬉しくって嬉しくって。
この曲は本当にテンションが上がります。終わらないで欲しい。
ぼわっとした髪型がキュートで、声はハスキーだけど可愛かった。
そして例のごとく死にそうにはない(笑)

 

Angel:David Merino
→個人的に今回一番好きなキャストです。
演じてて楽しい!って感じのキャピキャピした可愛いエンジェルでした。
若々しいんだけど、やっぱりあのブーツのままでテーブルに飛び乗ったりしていて感動。
エンジェルはこうでなくちゃ!と実感しました。
包容力はちょっと物足りなかったけど、 誰よりもはしゃいで可愛くて、喧嘩の仲裁はいつもやってくれて、そんなエンジェルが死んでしまうからこそ悲しいのだと改めて思った。

 

Collins:Aaron Harrington
→声がコリンズだー!という感動がありました。
日本人とは骨格そのものが違うので出る声も違うなあと。日本版だとにSOLでコリンズが負けそうかも…と思う時があったけど、逆でした。
ATMのコード「ANGEL」を言う時のお芝居が可愛くって好き。

 

Maureen:Katie LaMark
→モーリーンの出番ってこんなに少なかったっけ?となってしまった。ちょっと印象が薄い。
ミッキーの物まねはギリギリ感あって好きだけどw
Mooの煽りもお尻出す時も、もっとはっちゃけてもいいのになあって思った。

 

Joanne:Jasmine Easler
→安定のジョアンヌ。声といい体型といい良い感じで嬉しかった。
日本版のキャストも上手な人が多いジョアンヌ。
「Tango: Maureen」好きだなあ。
歌がうまくて声量もあったので、マークに負けないというか勝ってる!ジョアンヌはこうでなくちゃ!

 

Benny:Christian Thompson
→思ったより小柄だったのでびっくり。
でも、私はやっぱりベニーが結構好きなんだよなあというか憎めないなというのを実感しました。
喧嘩の仲裁したり、みんなと一緒に居たがったり。
譲れないこだわりを持って生きる彼等の仲でベニーの選択は浮いていたのだろうけど、ベニーにはベニーなりのこだわりや夢があるんだ、と私は思う。

 

ウェイター
→ウェイター役の彼の、レギパン?的なものを履いた脚があまりにセクシーで気になってしまったので書き残しておく。笑

 

 


同性愛者、HIV、ドラッグ…夢を追い求め、ボヘミアンな生き方を望む彼等。
言ってしまえば、世間的にネガティブな要素を持った人物ばかり。
けれど、この作品を観ている間は私はそんなことを忘れてしまう。
とにかくパワフルで、病気だとか依存症だとかセクシャルマイノリティだとか、はたまた人種の違いだとかそんなものを吹き飛ばすエネルギーを彼らから感じるから。

 

現実を確かに生きていて、今のところ大きな病気をしたこともなく平凡に生きている私よりもずっと、彼らは一生懸命に生きている。
特に、セクシャルな部分に関しては同性愛だろうが異性愛だろうがなんの違いもなく、ただ人を愛するという自然な、そして大切なこととして描かれている。
作中、最も涙を誘うのはエンジェルのお葬式のシーンで、コリンズの愛溢れる優しくも悲しい歌声に客席も泣いている人がいっぱいいるけど、その時、私たちは「二人がゲイのカップルだから泣いている」わけではないし、ただただ愛する二人の別れに、エンジェルという尊い人の死に、涙を流しているだけ。
そこには押し付けがましい説教じみたメッセージはなにもない。
それは、ジョナサン・ラーソン自身が余計な色眼鏡無しに彼等を見ていたからで、そうでなければこんな作品を作ることができるわけない。

 

改めて、彼が最高の作品をこの世に残してくれたことに、感謝したい。

 

私は、博愛主義というわけではないし、好き嫌いはもちろんある。
それに、やっぱり狭い島国で、人生のほとんどを日本人と接して生きているので日本人以外の方に話しかけられたりした時はびっくりするし、どんなに綺麗事を言っても、違う国で暮らしている日本人以外の方と打ち解けるのはきっと時間がかかると思う。
でも、そういう感情があるからこそジョナサン・ラーソンの視点がどれだけ素晴らしいかわかる。
だから、時間がかかったとしても、自分に優しく接してくれた人にはちゃんとその優しさを返したい。

 

それはもちろん、人種という問題だけではなく。誰かと接するうえで大切にしていきたいこと。

 

描かれている時代としては、私が生まれた頃の話だから少し古いのかもしれない。
けど、一番大事なものはきっとこの先もずっと変わらない。
言葉では上手く説明できないものを、この作品は教えてくれた。

 

RENTという作品が大好き。本当に本当に、出会えてよかった。

 

 

ブログ開設


はてなブログを開設してみました。

元はぷらいべったーや他ブログで公開していたものなどもいくつかこちらに移動しました。移動していないのもあります。


演劇やミュージカル等、趣味のものについて感想を書き残していきます。


バンダイ版セラミュを初代のANZAさんから四代目のマリナさんまでずっと追いかけていたのがきっかけで、観劇が趣味になりました。
今でもセラミュは大事な思い出です。

DぼーいずさんのDステに出会ってから、ストレートのお芝居の良さにも気付きいろいろ観ています。
Dステで、同じ演目を何度も観るという文化に触れて、今までと違う演劇の楽しみ方を知りました。
鴉~ガランチード辺りまで観劇。


2.5次元から東宝、宝塚…気になる演目、気になる役者さんがいれば観たりします。

 

現在は安西慎太郎さん、大山真志さん、ソニンさんを中心に応援しています。

 最近ファンになったばかりなので、勉強中です。

 

一番好きなミュージカルは『RENT』。

出会った時のあの頭を殴られたような衝撃は、私はこれが観たかったんだという衝撃は、一生忘れない。

 

 

そんな感じで、マイペースに感想を残していきます。

 

 

 

 

 

『幽霊』ヘンリック・イプセン 紀伊國屋ホール

 

この作品は、朝海さんが演じるアルヴィング夫人は、私自身が女であることを浮き彫りにした。
だから、込められた皮肉や滑稽さを理解してもなお、彼女に同情する気持ちを抑えることはできない。
それが本能的なことなのか『幽霊』によるものなのかは、わからない。

 

舞台上にはたった5人、セットは暗いお屋敷一つ。
どこかおどろおどろしいような雰囲気のそこは未亡人であるアルヴィング夫人の屋敷で、夫人と女中のレギーネが暮らしている。
そこへ、パリへ留学し絵を描くことを仕事としていた息子オスヴァルが帰ってきた。
アルヴィング夫人が建設した孤児院の財務管理を任されたマンデルス牧師、レギーネ父親である指物師のエングストランも屋敷に集う。
明日は、今は亡きアルヴィング大尉の名誉を讃える記念式典、という日。

彼はそのような式典が行われるほどの人物──というのは嘘。
正しくは、虚像である。
本来のこの男は”放蕩者”であり、世間での評判は全てアルヴィング夫人が夫に代わって行ってきた事業や取り繕ってきた体面の結果。

だからこそ夫人は知っている、世間というものが何を見ているのか。
人には何が見えているのか、何が見えていないのか。

それぞれの事情がそれぞれの視点から垣間見え紐解かれ醜態を曝け出し、物語は悲劇的な結末へと向かっていく。

 

オスヴァルは、安西君が今まで演じてきた役柄の中でも見目が美しいというか、装いが彼自身に似合っている。
清楚で品のある服装はより魅力的に見えるので、こういった時代の、特に外国の作品は合っていると思う。
また、口にパイプを咥え煙を吐き出しながらどこか不敵な、読めない笑みを浮かべながら登場する。
葉巻を吸い、水のようにシャンパンを飲み、女中であるレギーネに対し欲をチラつかせる。

葉巻、パイプ、酒、女!

あまりこういう役柄を演じているところを見る機会がないので、謎の感動を覚えました。新鮮で良い。

彼は、アルヴィング夫人の一人息子。
これまで女として夫や世間と戦い、またオスヴァルの為に母としても戦ってきた夫人にとっての最愛の息子だ。
幼い頃から母親の都合で留学し、現在はパリで絵描きたちと交流しながら絵を描いていた。
一年のほとんどが雨か雪の薄暗い生まれ故郷と違い明るく華やかなパリは、オスヴァルに希望を与えた。
しかし、彼は病気を患って戻ってくる。
その”病気”がなんなのかはいまいち濁されたまま物語は進む。
今年はリヴァ・るを観劇していたこともありどうにもゴッホの姿を思い浮かべてしまった。精神的なものなのか?と。

そんなオスヴァルを、真面目なマンデルス牧師はあまりよく思わない。
そこで、アルヴィング夫人はマンデルスに夫について隠してきた一切を話す。
夫が、世間の評判とは全く違う”放蕩者”のままであったことを。
夫人はかつて、”ふしだら”が家の中で起きたことさえもすっかり打ち明ける。
夫と女中ヨハンナの情事の声を聴いたことを。温室に隠れた二人の声が今でも耳から離れないのだと。

その時、オスヴァルと女中レギーネの声が食堂から聞こえてくる。
「オスヴァル様!いけません!放してください!」

夫人は叫ぶ。
「幽霊ですわ!温室のあの二人が、また現れたんですわ!」

アルヴィング夫人は語る。
私たちに取りついている、父や母からの遺伝、古い思想、信仰…。
それらが、この作品における幽霊の姿だと。

物語は進み、オスヴァルがレギーネを妻にしたいと打ち明ける。彼女には生きる希望があるのだと。
しかし、夫人にはそれを喜べるはずがない。レギーネこそ、夫と女中ヨハンナが浮気してできた子どもであったから。
それを知ると、さっきまで戸惑いつつも可愛らしさのあったレギーネが手の平を返したように態度が変え、怒って屋敷を出て行った。

オスヴァルは絶望する。
その絶望の理由がなかなかハッキリしないまま交わされる台詞。
それらを緊張しながら一字一句聞き逃すまいとしている時には、序盤に少し退屈だなと感じていたことなんて忘れていた。

息を飲み見守る中、こちらの心さえ絶望に落とす展開へ。

とうとうオスヴァルは、自分が先天性の梅毒─父親からの遺伝─であり、すでに発作も経験していると告げる。
そして、レギーネにこだわっていた理由こそ、次に発作が起きた時にはモルヒネを使って自分を殺して欲しかったからだった。薄情な彼女なら、病気によって幼児のようになっていく自分を面倒見ることに嫌気がさして絶対にそうしてくれるだろうと。
事実、レギーネはオスヴァルの病気のこと、お互いの関係のことを知ってあっさりとオスヴァルを見捨てている。
近しいもので薄情なレギーネがいない今、母さんがそれをするのだと。
「助けてあげます」そう、答えるしかないアルヴィング夫人。

そして──ソファに座るオスヴァル。
太陽、太陽。見上げて、ただただ呟くばかりの息子に「──たまらない!」夫人はモルヒネを手にする。
一瞬思い留まり夫人が天を仰ぐと、暗く雨が降り続いていた空に太陽が現れ、全てを白日の下に曝け出した。


***


これまで戦い続けてきた彼女を、追い詰めるような仕打ち。
なんてことだろう。彼女は何を思ったのだろう。

観終えてすぐ、どうして、とやりきれない苦しさに苛まれました。

しかし、アルヴィング夫人があまりにも自己中心的な考え方の持ち主であることにも気付いてしまう。
父親の正体を隠すことも、息子をパリへやったのも息子のためと言いながら自分のためだ。
夫から息子を遠ざける=自分の理想通りにする。
それなのに、息子に親子関係を求める。母親として愛されたい、息子を愛しながら自分を愛している身勝手な女。

その夫人と親子であるオスヴァルも漏れなく自己中心的な男。
レギーネのことを薄情だなんて言うけれど、肉欲的関心から近付き勝手に生きる希望を見出しレギーネの意見さえ聞かずに妻にしたいなんて言い出す。
最後には自分を産んだ母親に、自分を愛している母親に、自分を殺せと言う。

なんて親子だ!!

と、改めて考えれば思えてしまう(むしろそれでいいのかもしれない)内容でした。

けれど、私にはそう見えなかった。物語自体の本質とは別のところで。
それは、朝海ひかるさんと安西君が演じたからなのだと思う。

先ほどあげた「自己中心的な考え方」はアルヴィング夫人とオスヴァルの共通点で、親子であることを実感させる。
それとは別に、朝海さんと安西君の共通点がある。
「下品さが一切ない」こと。

朝海さんを見たのはエリザベート以来で、戦う女性としても母としてもどこかシシィを思い出さずにはいられない。
実際、時代も同じ頃ということで彼女らの抱える問題は同じで、精神の自由を求める点も似ていると思う。
ルドルフ好きの私からすれば、シシィは信用ならないので(笑)朝海ひかるさんが母親役?大丈夫なの?なんて思っていましたが、杞憂でした。

朝海さん演じるアルヴィング夫人は、一度は逃げ出しながらも、ずっとずっと、誰にも本当のことを悟られることなく戦い続けてきた女性であり、それでいて息子のことも大切に思っている人でした。
凛とした佇まい、スッと伸びた背筋。小さくて綺麗な顔はキリッとした表情で、それでいて漂う「ことなかれ主義」の憂いと諦め。
とにかく始終美しかったです。

そして、安西君もまた、とても美しかった。
というか、前から絶対に宝塚出身女優さんとの相性が良いと思っていました。
(それに、るひまのブックレットやパンフとかで和装やら応援団やら着ているのを見るとこれは宝塚おとめだっけ?となることがある)
単に顔立ちの雰囲気からそう思っていた(音月桂さんに似ていると思うこともある)のだけど、生々しくも品や清潔感を失わないお芝居の感じが近いのかもしれません。
ノーブルな服装は似合うし、多少品が無さそうに見えることをしても下品にはならない。
でも、口許に手をやって「栓を抜いてやるかな…」と言ったところなんかは妙な色気があって良かった。

ともすれば、オスヴァルは母親に親子以上の感情を抱いているのではないかと疑いながら観てしまいました。
「僕のためならどんなことでもしてみせるって?僕が頼めば?」
切羽詰まりながらのこの台詞を聞いて、放蕩者の息子で、レギーネにできて母親にできないこと、という連想から肉欲的な方向に考えて邪推してしまった私を許してくださいね。
しかし、近親相姦的な関係に見えてさえ不快にならない程の二人の美しさ。生々しくないいやらしさというか。
手を取る、抱きしめる、前髪をはらう、見つめ合う。ひとつひとつが画になりました。

しかし、見目麗しい親子を待っているのは悲劇でした。
そして、その悲劇が彼らの本性を暴いていく。

まず、孤児院が焼けてしまったこと。
そうしてより一層浮き彫りになった、エングストランやマンデルス牧師の人間性
もう、マンデルス牧師に関しては苦笑せざるを得ないというか、愚直というか、保守的な人なのでしょう。
エングストランには、もう最初から最後まで不快さしかありません。演じている吉原さんは、グランドホテルでも女性に対し酷い役柄だったので本気で怖かった。なので、アフタートークで見せた明るく気さくな雰囲気にはホッとしました(笑)

そして、オスヴァルが実の妹であるレギーネに恋をしていたこと。
オスヴァルが感じていた通りレギーネは薄情だったので、控えめで奥様の言うことには逆らわない女中から豹変してさっさと親子に見切りをつけて出て行きました。
葉巻、酒、女!に続いて近親相姦まで網羅するオスヴァル凄いです。
安西君は苦悩する青年役というジャンルだけでどれだけ枝分かれして演じていくのでしょうか(笑)

極めつけは、オスヴァルを蝕む病。
夫人が恐れていたことは、最悪の形で姿を現してしまった。

あのような男が父親だと思わせたくない、よくない家庭の空気の中に息子を置きたくない。
息子から父親の幽霊を遠ざけようとして戦ってきたというのに。
とうのオスヴァルには、亡き父親の幽霊が遺伝性の病気という形で取り憑いていたのだから。

だからこそ彼は、レギーネを求めた。生きる希望、つまり絶望しないために。
しかし、夫人はオスヴァルからレギーネという「救い」を取り上げてしまった。
エリザベートで例えれば、ルドルフにとってのトートがオスヴァルにとってのレギーネ
先天性の梅毒であることや発作の症状などからこれ以上の悲劇が起きないように、オスヴァルはレギーネに救い=破滅を求めた。けれど、アルヴィング夫人がそれを阻止してしまった。
結局はそれがアルヴィング夫人にとって最大の悲劇となり、守り抜いてきた全てが崩壊へと向かう。

「産んでくれと頼んだ覚えはありませんよ」
「あなたがくれたのはどんな命です?こんなものは欲しくない!」

この辺りの台詞は、思い出しても辛い。
私は独身で子どももいないので本当の意味でアルヴィング夫人の気持ちを理解することはできないかもしれないけれど、実の息子に、大切な一人息子に“生きる希望”を見出してきた彼女が、どんな思いだったか。

私は、アルヴィング夫人に対し同情しすぎなのかもしれない。
岩波文庫から出ている本も読みましたし、おそらくはもっともっとドロドロとした生々しさが渦巻いた作品として取れるのだと思う。直接的ではないけれど、裏にあるのはそれというか。
“放蕩者”と表すのが古い演劇ならではで私はとても好きだけれど、鵜山さんの言葉を借りて”スッキリ”した物言いをすればアルヴィングという男は浮気性のヤリチンの性病持ちで、その結果がレギーネという私生児で、レギーネに対し父親はなんだかいやらしい感じだし、彼女にオスヴァルが性的関心を抱けば異母兄妹であるし、本人は虫喰い─遺伝性の梅毒に罹っている。

性が乱れている!!

だから本当はもっと、肉欲の匂いや性のどうしようもなさを強く感じてもよかったのかもしれない。
けれど、私には女性として精一杯戦ってきた彼女を抱き締めたいとさえ思う。女として。
こういう見え方も有りなのではないだろうか。
朝海さんが演じた意味がそこにある。役者本人の色が透けて見えてくるのも演劇の楽しみ方だと思う。
観客として、女として、娘として、人間として。
この作品はあまりにも考えることが多すぎるし、立場によって見えてくるものが違いすぎる。

そうして考えていく中で気付くのは、私もまさに幽霊に囚われているうちの一人であるということ。
そして自分もまた、誰かにとっては幽霊であること。

誰しも一人で生まれ一人で生きることはできず、父親と母親がいて、血を受け継ぎ生まれてくる。
人と関わり、影響を受けながら育っていく。
その”影響”そのものが幽霊。

この作品では、幽霊はあまりよくない方向に作用しているけれど、私は“愛情”だって幽霊だと思うんです。
血であったり、愛情であったり、思想であったり、性と世間とのしがらみであったり。
憎いものであったり、時に愛おしいものであったり。
人が生きる上で常にまとわりつき、切り離せないもの。ずっとずっと昔から。人類の営みそのもの。
それが幽霊の正体なのだと。

時代背景や、女性という性の歴史、ものの見え方、色々なことを考えることのできる素敵な作品でした。

嘘で塗り固め武装し戦い抜いてきた彼女が全てをかけて守ろうとしたものが、自分の手によって消え去ろうとしている。今、まさに選択を迫られている。
太陽が顔を出し陰鬱としていた屋敷に、光が射す。

「それにみんな、私たち、光をひどく怖がっていますものね」

白日のもと真実を全て曝け出させるその容赦ない残酷さが、彼女自身の愚かさや滑稽さごとを明るみに出してしまう。
「太陽…太陽…」
オスヴァルが求めた生きる希望、抑圧からの解放の象徴である太陽。しかし、それはアルヴィング夫人に何の救いももたらさない。彼女だけが救われることを許さない。

あの、空を見上げた彼女の姿を、全てが崩れ去った瞬間を、私は忘れられそうにない。

 

舞台『喜びの歌』DDD青山クロスシアター

 

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」


キラキラとした目で無邪気に問いかける彼を怖いと感じるのは、二度目の観劇から。


『喜びの歌』

背景は近未来。政府によって様々なことが制限され、個であることを禁じられた人々はお互いを監視している。しかし、だからこそ戦争もなく平和である。
ジンダイジの経営するウォーターバーの常連イケダは、海の底に憧れを抱きバーチャル素潜りを繰り返していた。
そこへ偶然、ジンダイジの過激派時代の相棒であるヨダが現れる。
二人がいた組織のリーダーであったソノベは10年前に自害しており、彼等は負けを悟り組織をやめ、今の暮らしに至っている。
実はイケダは母方の旧姓を名乗っており、本名はソノベであり彼等のリーダーの息子であった。
イケダは父親が自害したことへの恨みを晴らすために二人を殺そうとする。

書き起こせば単純なストーリーなのに、感想がすんなりと出てこない。
たった三人しかいないこの舞台は、観た人自身の価値観や感受性、知識と直結していて感想はまさに十人十色だと思う。
DVDになるそうなので、半年後、一年後、五年後と時が経ち見返せばまた違う答えが出てくるのでしょう。
それは、観る人に寄り添いはしなくても突き放すことも決してしない作品だから。

イケダが何を思い、何をしようとしていたのか知ってから観ると、本当に物語が違って見える。
ジンダイジとバーで過ごしているひとつひとつの瞬間が、ジンダイジを試しているように見えて仕方ない。

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」

笑顔でこの質問をしたイケダに、背筋がぞくっとしました。

イケダのひとつひとつの言葉が尋問に感じるし、明るい表情さえも裏に意味があるように見えてくる。初見でも面白いけれど、二回以上観れたらさらに面白い。
私がしんた君のファンなので、とにかくイケダに注目しまくってしまったのもありますが。
イケダはちょっとお馬鹿そうで無邪気な笑顔が可愛らしい好青年。しんた君によく似合う役です。
舌足らず気味で時々裏返ってしまう声は普段の本人に近いかなと。なので、途中までは可愛らしい役だな~なんて思って観ていました。

この舞台では音楽や音が効果的に使われていて、セルロイドレストランでもスズカツさんが話されていたけれど編集された舞台。
映画のカットが入るように切り取られ切り替わるのですが、それを音や照明を使って表現していました。(ノイズが入ったり、机を大きく叩いたり)

過去のシーンでジンダイジとヨダが話している場面でも、舞台上にイケダはいる。
ノイズが入り、スポットがイケダに切り替わる。

「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」
「人間は、その人の思考の産物にすぎない。 人は、思っている通りになる」

ガンジーの言葉ですが、その独白が入ったことでアレ?となりました。イケダなにかありそうだなと。
彼は海底に憧れを抱き、いつか潜りたいと言ってバーチャル素潜りを繰り返している不思議な青年。
序盤では実際にしんたくんは水槽に顔を突っ込み、そこでのやりとりは可愛らしい。

しかし、物語も終わりに近づいたところでイケダは一人、水槽を前に独白する。

「猫の足 鉄の爪 神経外科医たちが「もっと」と金切り声をあげる……」

もっと続くのですが、これはキングクリムゾンの21世紀のスキッツォイド・マンの和訳とのこと。
これを気が狂ったように呟き、叫んでいる。8/26ソワレでは水槽にポタポタと涙が落ちるのが見えた。
そして、顔を水槽に突っ込む。
この時点で、もうイケダはヤバい奴とわかりました。あ、これしんた君がよく演じている好青年と見せかけてやべーやつだ、と。

ヤバい奴とわかりつつ、じゃあこいつは何がしたいんだ?とわからないので初日はドキドキして体が緊張で強張っていました。

「仕事何してるの?」
「害虫駆除です」

「昔は良かった~っていうジジババどもが。その良かった昔を作ったのはお前らじゃないうえに、今の世の中をつくったのはお前らだろクソどもが、って思っちゃいます」

声も口調も明るく、なんてことない仕事の愚痴。けれど、ラストを知ったうえで観るとこの言葉がジンダイジやヨダに掛かっていることがわかる。
イケダは、あっさりと正体を明かす。彼のヨダに対しての表情が怖い。

デイトレーダーにおなりとは、拝金主義まっしぐらですね」
「拝金主義とはなんだよ~」
「親父の言ってた原始共産主義とは真逆ですよね?ある意味凄いな」
「あ、褒めてたんだ」
「ばーか」

この、「ばーか」を彼らの前では好青年の彼が急に言い出すんですよ。ゾクッとしました。さっきまで敬語で喋っていたのに。
しかし、びっくりしたのがこの「ばーか」のシーンで一部笑いが起きていたこと。こういう奇妙さが起こるのが、この雰囲気の舞台特有の現象だなと思いますね。人それぞれ感じ方が違う。
イケダは、父親キリスト教に強い興味を示していたことや父の日記の内容を話す。
この時にヨダはそれこそ「ばーか」と言われて仕方ない口ぶりだったけど、ジンダイジはソノベやイケダの言いたいことを理解していたように思う。
そして、会話の末イケダはヨダに水をぶっかけて、また21世紀のスキッツォイド・マンを唱え彼らに本心を明かす。

父が死に、貧乏のどん底まで落ち、母は頭がおかしくなり、地獄を見た。

この時のジンダイジとヨダの違いもまたわかりやすいというか。
ジンダイジはただならぬイケダの様子に焦り、ソノベの死に関すること(息子のその後も含め)罪の意識があるのがわかる。自分を責めている。
けれどヨダは自分に水を掛けたイケダに怒りを感じているようで、過去の出来事について自分を責める様子はあまりない。
イケダは、豹変したかと思えばさっきまでと同じように明るく好青年な雰囲気に戻り酷く不気味。
就職が決まったという彼にお祝いを渡すと言った二人。

「でも、今は準備が」
「いいんです、こっちで用意してきましたから!」

イケダが鞄から取り出したのは拳銃。さすがにヨダも焦る。
ヨダに銃を向けると21世紀のスキッツォイド・マンが流れる。それも爆音で。暗いステージで、淡く冷たい光に照らされるイケダの美しいこと。

ジンダイジに銃を向け近付くと、ジンダイジはイケダの腕を掴み自分の額に当てさせる。
しかし、しばらくしてもイケダは引き金を引かない。
ジンダイジはイケダの腕を引っ張り体ごと抱きしめてしまう。暴れ、叫ぶイケダ。その声さえも爆音の音楽で微かにしか聞こえない。
全てが最高潮になったところで音が途切れ、イケダも大人しくなる。
ジンダイジは、イケダを抱きしめたまま呟く。

「俺は君が好きなんだ。だからこんなことはしてほしくない」
「…嫌いだよ、あんたなんか。なんで死ななかったんだ、全てに絶望して幻滅したんだろ」
「生きることが、好きだからだ」

イケダが、ジンダイジを見つめて、一度逸らしてまた見つめていたのが印象的で。
ただこれは千秋楽しかよく見てなかったので他の日がどうだったかよく覚えていないのですが。
全てに絶望して幻滅して いたのは、イケダも同じ。
だからこそ、ジンダイジになぜ生きるのかをずっと問いたかったのかもしれない。
イケダが去り、ラストシーンは冒頭と同じくジンダイジが一人踊る。
違うのは、踊った後、イケダが去った方を見て、それから水槽に顔を突っ込み、そしてやはり死にきれずに顔を上げたこと。

ジンダイジは何かと過去のことを思い出していたし、墓参りにも行けず、あの頃に囚われたまま。
現実を見ているフリがうまいけれど、実際はずっと目を逸らし続けている。
彼は「みんなお前みたいだったらいいのにな」とヨダに言ったけど、あんなふうに切り替えて生きていけたら。
「好き」は常に楽しいものじゃない。
生きることが好きという言葉に嘘はないと思うけど、それでも死にたくなる時があって、死にきれないまま生きる。
いっそ狂ってしまえれば楽なのに。こんな世の中で生き、狂う一歩手前の彼は、そして私たちもまた、21世紀のスキッツォイド・マンなのだろうか。


なんていろいろ言ってみるけど、主義とか思想とか、義務とか責任とかそういうの抜きにして「好き」という感情で動いた二人というところに私は注目したい。
イケダは、父親の死にまつわる自分の絶望的な境遇への恨み辛みを晴らさなくては、害虫は駆除しなければと考えていた。
幼い10歳にして父は死に、母は狂い、貧乏のどん底で辛かったであろう彼の10年間の行動原理はそこにあった。
ジンダイジも、責任をとろうと思うのであればイケダに殺されるべきだし、自分で死にきれないのであれば他者に殺されていいと考えたはずだ。
原子レベルでは死なないだとか小難しく考える彼のことだから、一瞬のうちにそれくらいの頭の整理はできたに違いない。

だからこそジンダイジは銃を額に当てさせた。

けれど、イケダはジンダイジをすぐに撃つことはできなかったし、ジンダイジもまたイケダを抱きしめた。

「好き」だからだ。

イケダはジンダイジを嫌いだと言ったけれど、嫌いでなければならなかった。ずっとずっと、そう考えていたのだろう。父のため、恨みのため。
けれど、人の好き嫌いは理屈に左右されるものではない。ソノベもジンダイジを可愛がっていたようだし、頭も良い。好ましく思うのは必然だったように思える。
確証が持てなかった「好き」は、生きることにもジンダイジへもどちらにも掛かっていたんじゃないかと。そうであってほしい。
これは、私のイケダに対する希望でもある。

メッセージ性とか無視してイケダに関してだけ直接的な表現すれば、好きになっちゃいけない相手に好きって言われた、っていうことかなって。
「好き」って凄い。
例えば「性格いいですね」って言われたら、褒められてるのに「そんなことないですよ」って否定できてしまう。
でも、「あなたの性格好きです」って言われたら、どうしようもない。それは言った相手の価値観の問題であって、言われた方は手も足も口も出せない。

「好き」って、全部受け入れるような言葉。

イケダの恨み辛みは、ジンダイジによって受容されて流されて、10年間の行動原理が一度破壊されて、好きっていう形で構築されなおされてしまった。
イケダにとっては、価値観ひっくり返される出来事。

だからこそ「好き」という美しいような言葉ではあるものの、素敵だとかそれこそ美しいラストだなとは言い難いのかなって。
ある意味狡い行動だよね、ジンダイジさん。
けれど、ある意味救いでもあり、イケダは穴ぐらから出ていくことができた。
できないのは、ジンダイジただ一人。イケダが出て行った方を見つめ、そして今日も死にきれない。
死にきれないことで生への執着を確認しているのか、生きていることを実感しているのか、彼もまた潜ることで何か変わるかもしれないと思ったという変化なのか…窒息マニアなのか(笑)

視点を変えればあらゆることを考え、あらゆる意味にとれるようになっているこの舞台。
良いようにも悪いようにも取れるけど、このラストについて、21世紀への希望も込めて前向きに捉えていたい。

いつか、もしかしたらもうずっと先かもしれないけど、二人が出会うことができたら何か変わるかもしれないって。
イケダがジンダイジを穴ぐらから引っ張り出して、海の声を聴きに行ってもいいんじゃないかって。
小さな水槽なんかじゃなく、砂浜で、エメラルドブルーの大きな海を前に思わず歌を口ずさむ二人。

自由は私の中にあり、誰もそれを奪うことができないのであれば、そこそこ幸せな未来を想像することだって私の自由なはずだ。

タイトルの『喜びの歌』は、時計じかけのオレンジを観てからはちょっと不穏に感じる。
21世紀のスキッツォイド・マンを唱える時のイケダはやばい時だし、彼にとっての喜びの歌なのかなとか。
彼自身、戒めとしての曲でもあるのかなとも思うし。忘れてはいけない過去への。
曲の使われ方がかっこよすぎて、クライマックスのあのボルテージが最高潮まで上がるあの瞬間は忘れられそうにない。
ジンダイジのような大人はたくさんいると思うし、みんないっぱいいっぱい。みんなスキッツォイドマンの一歩手前。

最後に劇場について触れておきたい。
青山劇場の横のとおりを奥に入ると、地下への入り口がある。一瞬わかりにくいけれど立地のいい劇場。
たった、180席くらいの小さな劇場だ。
中はパイプ椅子ではなく、図書館とかに置いてありそうな椅子。不思議だ。
椅子の並びが千鳥ではないこと、トイレが少ないのが難点だけど、私は秘密基地っぽくて好きだ。

好きなんだ。

 

2015/12/30「晦日明治座納め・る祭~あんまり歌うと攻められちゃうよ~」明治座


第一部:お芝居「将の器~泣くよウグイスHEY!HEY!HEY!~」

 

観終えてすぐ、バッドエンドだと思った。

 

坂上田村麻呂は、人の心の声が聞こえてしまう。
そのため人間不信で感情はとうに捨てたと言い、動揺などしない能面のような男。
一方阿弖流為は、蝦夷のリーダーで天真爛漫な大食漢。
素直で心優しく暴力を嫌うのに、怪力の持ち主。

そんな正反対の、二匹の「怪獣」のお話でした。

田村麻呂のいる朝廷軍はストレート。
阿弖流為率いる蝦夷たちはミュージカル調での芝居の表現。
相容れない者たちの対比。

田村麻呂は、人の心の声を聞えないようにする勾玉を、桓武天皇より授かっていた。
その桓武天皇の命により、蝦夷討伐に向かう。
森の中で偶然、阿弖流為に出会う。そして、彼の心の内を聞く。「お前の望みはなんだ」『おにぎりが食べたいな~』「おにぎりだと!?」
人間は笑顔で嘘をつく。それを知り人間不信となった彼にとって、言葉と心の声が同じ阿弖流為は不思議な存在。
「美味しいご飯を食べて美味しいお酒を飲んで、みんなで美味しいねって言えるようになったらいいね」そんなことを心の底から願う阿弖流為を、田村麻呂は受け入れた。
自ら名前さえ名乗ってみせた。田村麻呂は阿弖流為を気にかけるようになる。彼らは天皇が言うような「獣」ではない、自分と同じ「人間」だと。

阿弖流為は、アラハバキ神に愛され「蝦夷の未来を紡ぐ者」と言われていた。
しかし彼は、戦を好まない性格のせいで蝦夷たちの中で浮くことがあった。その素直さと怪力によって仲間を傷つけ、責められ、悔いて自ら力を手放せば「役立たず」と罵られた。彼はその力を失くすためにアラハバキ神に相談していた。神聖な取引には何か代償が必要だった。
「力を失えば、次にその力を取り戻し使う時、それは阿弖流為が死ぬ時」
阿弖流為は全てわかっていて、蝦夷を、仲間を、みんなを救うために覚悟を決めた。
力があってもなくても悲しいことがあるなら、自分の力を受け入れその力でみんなを護ろうと。

田村麻呂はとある出来事により、阿弖流為は自分に嘘をついたと誤解。
両軍の勝敗を掛け田村麻呂と阿弖流為は斬り合った、はずだった。刺さる田村麻呂の刀。阿弖流為の刃は寸止めで田村麻呂を傷つけることはなかった。
阿弖流為は、自らの命を犠牲にして蝦夷を救った。
阿弖流為は、自らの命を礎に「蝦夷の未来を紡ぐ者」。
阿弖流為は、田村麻呂なら自分を殺してくれると信頼していた。
田村麻呂の身体を引き寄せ、さらに刀を深く貫かせた。

最後に、「人間ってさ、そんなに悪いもんじゃないよ」悪い声だけじゃない、別の声も聞こえるかもしれないよと田村麻呂に伝えると、アラハバキ神の元へ召された。

現実はそう甘くない。
その後も、田村麻呂には相変わらず人間の醜い声ばかりが入り込んできた。
けれど、田村麻呂は阿弖流為の目指した「美味しいご飯を食べて美味しいお酒を飲んで、みんなで美味しいねって言える」国を作ることを目指し、天皇より授かった勾玉を、刀で砕いた。

自分の力を、自分自身を受け入れ、生きていく道を定めた。

 

田村麻呂と、阿弖流為の対比が見事でした。
外からの声、内にある力。
心を閉ざした田村麻呂と、素直に感情を出す阿弖流為

2幕の冒頭で歌う曲で
田村麻呂は「この国の為」と歌い
阿弖流為「みんなのため」と歌う。
言葉は違うけど、命を懸ける意味というか先にあるものは同じで。

怪力を取り戻した阿弖流為や、阿弖流為を犠牲にすることを受け入れるしかない蝦夷たち、そして田村麻呂が歌う怪獣のバラードはとにかく泣けた。
まさかこの年で、怪獣のバラードで手拍子しながら泣く日がくると思わなかった。

 阿弖流為が武器を持って歌う姿はまさに怪獣で
「海が見たい 人を愛したい 怪獣にも心はあるのさ」
歌詞が、阿弖流為の優しい心とリンクするから。

蝦夷の仲間たちと共に歌う阿弖流為の後ろに田村麻呂が一人歌う。
直前に側近であり友だと思っていた綿麻呂に裏切られ、一人となった田村麻呂。
「海が見たい 人を愛したい 怪獣にも望みはあるのさ」

気付きました。人並み外れた能力を持つ彼もまた、怪獣だった。力持ちで身体が大きな阿弖流為だけじゃない。
人の心の声が聞こえてしまう田村麻呂だって。その力のせいで人を嫌い、嫌われ、でも感情をなくすなんて無理だ。
傷付かないように、心に蓋をして気付かないふりをしていただけ。本音では「人を愛したい」。
愛のある未来を、平和な世を、同じ未来を二匹の怪獣は望んだ。
それは阿弖流為亡き後も、田村麻呂の生きる道となった。

阿弖流為は自分の力のせいで仲間も自分も傷付けながらも、最終的には自分自身の力を含めすべてを受け入れた。阿弖流為だって、人が嘘をつくことを知っている。嘘には種類があることも知っている。
それは紀古佐美のような姑息な嘘であったり、阿弖流為が仲間についた人を護ろうとする嘘であったり。
そのうえで信じる強さを持っている。わかりやすくヒーロータイプ。
凄く勝手に、広く解釈すると、ナルトとサスケみたいな対比だと思うんだよね。
田村麻呂は冷えた心を、阿弖流為の素直さに溶かされた。。
彼自身、蝦夷を「獣」だなんて思っている様子ではなかったけど、それでも森で対峙したことによって
人並み外れた怪力の阿弖流為は「人間」だと。それを知って、自分もまた人並み外れていても「人間」であるいうことを思い出せたんじゃないかな。

 怪力を持っていても、人の心の声が聞こえても、嘘をついても、感情があって、それが人間で、だから戦も起きて、それが世の中で。色々あるけど、悪いことばかりじゃないと教えてくれた阿弖流為
そんな救いのヒーローを手にかけることになってしまった田村麻呂は可哀想なんだけど、それでも阿弖流為に出会わない人生よりもずっと良かったはず。
桓武天皇に言われたからじゃない、自ら目指したい世の中を、阿弖流為も望んだ世を作ろうという強い志を持てた。
同時に、阿弖流為にとっても自らの能力や運命を受け入れ蝦夷のためと命を絶つ決断を下すのに田村麻呂の存在は必要不可欠だったと思うので、
やはりこの出会いは必要なものだったんだろうな。

阿弖流為が死ぬ間際の田村麻呂とのやりとり、二人があまりに綺麗で惚れ惚れしました。
相容れないはずだった二つが心から重なった瞬間だったんだと思います。
観終えてすぐはバッドエンドと感じていたけれど、今となってはメリーバッドエンドくらいには思えています。

ただ、すっきりした顔で田村麻呂を引き寄せて自ら刀を深く差した阿弖流為と、阿弖流為の言葉が嘘ではなく自分が誤解していたこと、阿弖流為が死ぬという事実の二つを突き付けられて
戸惑い動揺している田村麻呂の表情を見ると彼はやはり辛い現実や未来を背負ったなと。
でも、実は一番可哀想なのは母礼では?残される者たちはいつだって辛い。

全体的に脚本が、そこでその台詞を言わせるか!?っていう、人の心にズカズカ入り込んでくる感じだったんですね。良い台詞も、嫌な台詞も。今回初めて女性の脚本家さんだったということだけど、ポジティブにもネガティブにも、心に訴えてくる感じがまさに…と言った感じでした。
「なんかよくわかんないけど楽しかった」という感想の大江戸の次に生で観たのがコレという落差は凄い。
るフェアよりも容赦なくて、これくらいやってくれると作品として矛盾も甘さもなくて結構好きです。

 

田村麻呂*三上
→あんな顔をする三上を見ることになろうとは…
遡れば2009年秋…鴉が三上を初めて見た時だったけれど、あの時からなんだか高貴で几帳面そうな雰囲気の役のイメージで。失礼だけど特別うまいとか下手とか意識したことなかった。
それがなんかもう…田村麻呂可愛すぎか?不憫すぎか?
田村麻呂が花道を通ってきた時の佇まいが美しくオーラがあって、なんかもう惚れ惚れしてしまいました。
三上らしい役でもあるけど、三上=フェニックスというか熱血というかとにかく真っ直ぐな熱をいつも感じていて完全なる「陽」ではなくとも「陰」ではなかった。
それが今回は、人の心の内が聞こえるがゆえに心が死んでしまったような「陰」の雰囲気があって驚いた。しかも、阿弖流為は田村麻呂のミミかって感じでキャンドルの火を灯してくれたようで、その表情は少しずつ生き生きしていく。
なのに!めんまろこのやろ~!めんまろの仕打ちと天皇の「今度の側近には本音を出させないようにね」という言葉。
人間らしくなったはずの田村麻呂が再び表情を失った時のあの、今度こそ救いのないような、真っ黒な目…
三上のあんな表情を見ることになるとは思っていませんでした。
田村麻呂がラストにステージに残り、自嘲的な表情で笑っているシーンは今も胸に残って重くて痛いです。それはきっと田村麻呂もで、森で一度、剣を交えた時に一度、たった二度しか会っていない阿弖流為のことを思って胸を痛めているはず。彼が笑うシーンがとにかく辛くて「泣いている人よりも泣くのを我慢している人を見る方が悲しい」っていうのはこういうことなのかなとも思いました。
序盤はかなり感情を殺していて、阿弖流為に出会ってから少しずつ人間らしくなり、阿弖流為に嘘をつかれていたと誤解すると動揺し、彼らしくなくなっていく。
ある意味田村麻呂は一番人間らしく、阿弖流為以上に素直でわかりやすかったな。
田村麻呂は、げんげん、三成に続き大好きなキャラになりました。
三上さん本当に本当にお疲れ様でした。良いお芝居でした。
三上真史をこんなに可愛い可愛いと思ったことはないです。年齢を重ねてどんどん可愛くなってませんか?怖いです。
三上荒木はこんなに若くて可愛いのに、どうして鈴木だけ老けていくのか…
しかし、海尊くんの次が田村麻呂とは…自分の英雄を(メリバ以上には)救えない役が続いてるね。

阿弖流為*真志
→こんなハマり役はいるのだろうかってくらい、ハマってた。
ちょっと舞台演技が過剰というか、声を作りすぎなところが気になって最初はちょっと違和感があったけど。汗をダラダラ流しながらの熱演は、観る側にも阿弖流為という人間の器の大きさや強さ、同時に弱さも教えてくれた。
単純に、こういう太陽のようなキャラクターは好きだし、田村麻呂目線で観ていたので阿弖流為はとてもかっこよかった。
毒を盛られた食事さえ続けて食べようとする食いしん坊でw
暴力を嫌い、戦を嫌い、みんなでご飯食べて美味しいねって言えるのが幸せだと。あの蝦夷の状況でそんなことを言うのはバカバカしいことだろう。そんな場合じゃないんだから。
でも、心から思っていることをありのままに伝えられる阿弖流為の素直さの表れだと思う。おにぎり落としちゃってパッパッて払ってたのかわいかったな…。
自分が殺してしまった仲間に一番胸を痛めたのは阿弖流為だろう…辛い。悲しくて力を失くしてほしいって頼んだら、今度は森の一大事に何もできなくなってた。
でも、それで阿弖流為は自分の力ごと自分を受け入れてみんなを護るべきだと自分の運命を受け入れられたんだね。
そんな阿弖流為を見て、田村麻呂も自分を受け入れられたわけだし。
阿弖流為はバカみたいに見えるけど、決してバカじゃなくて人をよく見ていて愛していて、だから人間の悪い面もすべて受け入れてる。
田村麻呂は、逆に人を愛してるから人間の悪い面を受け入れられなかったんだろうな。
体も心もおっきくて武器振り回してる姿がとにかくかっこよかった。
もっと見たいな~と思わせてくれる役者さん。

綿麻呂*安西くん
→次は誰のことを書こうかって考えて、綿麻呂のことを書かないと収まらないなと。
綿麻呂は田村麻呂を慕う部下。るひま年末恒例の始まる前の挨拶が今年は応援団でかわいかったけど、あれ?安西くんがいないぞと。
朝廷側は物語始まってすぐ出番だったので、いなかったみたいです。綿麻呂と天皇のやりとりから始まる物語。
「お前それ、そんなの巻いてたっけ?」
「これは私がモンゴル相撲で優勝した時のものでございます」
「奇遇だな~わしもこれ初代で貰ったやつなんだよwあれ、田村麻呂動揺してる?」
↑田村麻呂を笑わせようとする日替わりネタw

綿麻呂ちゃんはとにかく可愛かったです。
田村麻呂を慕い、田村麻呂が悪く言われるとムッとして言い返したそうな顔や態度をとったり。
彼がそんなに慕う理由は、昔田村麻呂に助けてもらったからだと思い出話を始める…
「パカラッパカラッパカラッ!」
!?
「うわー!馬から落ちてしまった!幼き私が!馬から落ちてしまった!」
!?

そこへ、田村麻呂だけが気付き綿麻呂を探しに来てくれた
「た、たむらまろさまー!めんまろはここです!めんまろはここでございますー!」
怪我をした綿麻呂を自分の馬に乗せた田村麻呂。綿麻呂の馬も怪我をしていて、けれど天皇からの授かりものだから置いてはいけないと自ら馬をひいて帰った田村麻呂。

「それを見て、私はこの方に対する忠義は変わることがないだろう、と思ったのです」

もう、安西くんツッコミどころ満載だねいつも通りだね。気持ち悪い枠になれちゃったほうが笑ってもらえて得だよ大丈夫w
なんでもやる子だなあ…
綿麻呂はその後もずっと田村麻呂のそばで、田村麻呂を見守ってる。
阿弖流為に出会い、変わっていく姿も。
彼はしっかりしているので、桓武天皇が勝手に綿麻呂の刀を抜いて蝦夷の一人を殺した時もひざまずいてその刀を片付けたりしてね。
歌の中で「追いかけたい背中がある 主であり兄のような」と田村麻呂について歌う
田村麻呂は阿弖流為に出会い変わった。桓武天皇に頼み、蝦夷たちに恩義をと説得しに行こうとする。
そんな田村麻呂を見た綿麻呂は急に雰囲気を変え刀を抜いた…

桓武天皇はねぇ、これを恐れていたんですよ」
!?
田村麻呂に刀を向ける綿麻呂。
「人の心を聴かないようにする宝玉があるなら、心を聴かせないようにする宝玉があるとは思わなかったのか?」
田村麻呂が持つものと色違いの玉を取り出す綿麻呂。
「人間不信の割に、簡単に人を信じるんだなぁ?私が笑顔を見せたから?思い出話をしたから?」
動揺する田村麻呂を、弟麻呂が助けに来る。綿麻呂は気絶させられ退場。
弟のように思っていた綿麻呂に裏切られ、ショックを隠せない田村麻呂。そのすぐ後で怪獣のバラードを…あああ…
うん、私もショックを隠せないよ!!!!!言ってたじゃん!!!綿麻呂は田村麻呂を慕ってるって言ってたじゃん!安西このやろー!
実は綿麻呂は王族の子どもで、命を狙われていたので匿われていたと。その問題がなくなり、家へ帰って行った綿麻呂。
思い返せば、天皇は最初も綿麻呂と話していたし、綿麻呂の刀を使ってたし、そのことに驚いたりしない綿麻呂はつまり最初からってことで。
私は、この綿麻呂をどう解釈していいのかとても悩んでる。思い出話も歌も、嘘なのか、そうじゃないのか。
嘘じゃないとも思う。でも、綿麻呂は天皇側、朝廷側の人間であることが前提で。その天皇の考えや綿麻呂の理想から外れていったのは田村麻呂の方だし。
田村麻呂が人間らしくなりはじめ遠くで戦う阿弖流為を見て嬉しそうというか、生き生きした表情をしていた姿を横で見ていた綿麻呂が少し寂しそうに見えたんだよね。
変化してしまったのは田村麻呂の方で、綿麻呂は何も変わらないのかなとも思うし。綿麻呂の忠義とは…?
はあ~しかし騙された。綿麻呂このやろー安西コノヤロー。安西くん嫌いになるかと思ったwでも、それだけ熱演でしたよと言うこと。
高笑いを見て天草四郎を思い出した。彼もほんと、気になる役者さんです。
あー、でもショックだった…三成の後の落差ひどくない?笑
美味しい役もらいましたね。

 母礼*辻本くん
→軍師モレ。母礼で、モレ。
軍師であり全体を考えなくてはならない母礼にとって、阿弖流為は暢気すぎて苛立ちが募る。母礼は阿弖流為に「好きにしろ」と言ってしまう。阿弖流為は彼を信頼しているので言葉のとおり好きに動いた。その結果が、我を失い味方さえ傷つけた。
阿高楽に「お前なら阿弖流為をうまく動かせると思ってお前を軍師にした、阿弖流為はお前を信頼していた」と聞かされて阿弖流為の気持ちを無視したことに気付く母礼
結局、母礼のそういう部分のせいで阿弖流為は母礼に相談せず力を失ったし、その後仲直りできたから不死身ではないことを母礼だけに伝えたんだよね。
母礼が歌うStory「一人じゃないから 君が私を守るから」パロだし笑っちゃいそうなんだけど、この頃には涙が止まらず笑うとか無理でした。
母礼は軍師として序盤厳しそうな感じだから、つじもっちゃんらしくない?と思ったけど、とても優しい人だったのでなるほどな~と思いました。
あの優しい声色でStory歌われるとたまらない…。
ただ、一番厳しいのは母礼の立場だと思います。軍師として、阿弖流為を救う軍略はなく、母礼の代表(リーダー?)として桓武天皇のところに出入りしているのが…
田村麻呂同様、目に光がなく天皇の意志に背くことがないよう人形のような母礼を見て辛くなった。
あんなに明るかった蝦夷たち、今、歌えてますか?
あの最後の出番の一瞬でそれだけ思わせてくれるつじもっちゃん凄いと思いました!よかった!

桓武天皇*コバカツさん
→まさかこういう感じで来るとは…
「弟の怨霊が~怨霊が~」とずっと言ってるめんどくさそうな人だなと思ったら、コバカツさんもエキセントリックな役と言っていたけど
大江戸の吉良、るフェアの後白河法皇みたいな感じだった。主人公じゃないけど、出番は多くないけど、なんか、うああ~って役だ。
蝦夷から交渉に来た阿高楽と蓮杖陀の話をまともに聞く気なんてなくて、自分たちに逆らったくせに何言ってんの?って感じで
綿麻呂の刀で阿奴志己を刺殺し、阿高楽を見て「脚悪いの?じゃあこいつ連れて帰れば?」と言い放ち「早く片付けて、なんか血なまぐさいよ」とまで言う。
最後、綿麻呂のことに言及しつつ新しい側近をつけるという話を田村麻呂にして「次の側近には本音ださせないようにね」なんて。
怖すぎ。コバカツさんもエグい役と言ってたけど、もう作品のラストごとエグいです。
めんまろあんざいとおなじで、コバカツさんも嫌いになる~~!って感じだった。カウコンでやっぱりかっこよかった。うん。
官兵衛からの落差が凄いな…コバカツさんならではの雰囲気の天皇だったな…。

紀小佐見*龍くん
→龍くん…顔に合った役だry
龍くん綺麗だからすごく意地悪そうに見えるんだよね、本当はとっても優しいのに。今回は龍くんの演技と顔立ちとかすべてが合ってて凄かったし良い役だった。
蝦夷の森に火をつけた時は殺意が沸いたけどね。「冬の枯れ木はよく燃えるだろうな」って台詞がもう…
ある意味小物でしかないし最初から嫌な役とはいえ、悪役を貫き通した点で桓武天皇や綿麻呂よりはいいかな。うん。

 入間広成*竹村くん
→ほとんど出番ないけどかわいかったw
紀小佐見の側近?なんだろうけど慕ってなくて、心の中では悪態ついててすっきりしたw
田村麻呂と向き合うと「…かっこいいなぁ~」とか言ってるし(笑)
私が観た会ではないけど、彼が描いた田村麻呂と綿麻呂の似顔絵がツボすぎてww

鷲葛城*原田さん
→原田さんってこういうの出るんだ!?って思ったけど、クリエイターでもあるしなんでもやるんだろうなあ。
私は、彼女(?)の言い分が結構わかる。
母礼の言うこともわかるけど、鷲葛の「誇りはお金にならない」という考え方のおかげで青森が豊かになっていることは事実。
やり方は汚いし「犬」と言われれば「ワン」と鳴くプライドの無さは悲しいしマネはできないけど、否定はしない。
結局、母礼たちもそうやって生きることを選ぶしかなかったわけだし。
鷲葛の良いところは、決して従順ではないところ。誇りを捨てて「ワン」と鳴いても、自らの考えや利益(自分だけではなく青森の)を考えて行動しているところ。
したたかな強さだと思った。将の器とタイトルにあるけど、国のトップではなくとも自分が住んでいる地域のトップが鷲葛なら安心できると私は思う。
原田さんは歌を聴いてて気持ちいいし、綺麗だったしwよかった!!
2幕早々出落ち感凄かったし意外と面白いことやる人なんだ~って知れて楽しかったww

アラハバキ神*高嶺さん
→綺麗だった~~。しかし、アラハバキモーツァルトのヴァルトシュテッテン男爵夫人と同じにおいがする。。。
彼女は、阿弖流為を傍に置きたかったのかなというか。最後、召されていく阿弖流為に対してのアラハバキ様の表情が…うーん。
トートのようだった、と言ってる人がいたけどわかる!!って感じ。
あのような立場から、阿弖流為に惹かれていたんだろうな…やっぱり、連れて行かれちゃったのかな阿弖流為は。

ヨン*みねくん
→なんでヨンなのか、観ている時には気付かなかった。
ヨンの衣装はもののけ姫のサンにそっくりでwでもそれは、アシタカが蝦夷の末裔だからとかそういうことなんだと思ってたら、サンだからヨンなのかと。やられた!
しかも、そこにヨン様を掛けてくるというWパンチ。みねくんじゃなきゃできない!
美しい美脚を惜しげもなくさらしながら「生きろ」とか言ったり。ジブリのパロっていいのかな?w
背中にかかった細いピラピラを手に取って「これなんだと思う?…そうめん」「一回ゆでたやつ」とアドリブも可愛い。
衣装が衣装なので、基本は女性のように足を閉じて座ったりするんだけどそれがまたww
アラハバキ様を呼ぶにはヨンの力が必要で、ヨン自体も静電気的なものは起こせて、それをやぎょうまるにビリビリってやったりしてて鳥ちゃんと仲良くて可愛かった!
でも、座る鳥ちゃんに跨って顔に股間を押し付けた結果、スパッツ越しにぺたっと股間に触れられるという一連の流れがww
しかもその後、わーって股間を隠しながら退いたヨンと股間を触った右手を見つめるやぎょうまる…面白いし可愛いしで…和む。
ヨンはアラハバキ様が大好きだけど、阿弖流為のことだって大好きなんだよなー。アラハバキ様が好きすぎて阿弖流為に冷たくすることもあるけど。
ヨンについて深く考えるには、あと2回くらい観ないとわからない気がする。
阿弖流為さえいなければ」というのは半分本当で半分嘘だと思う。だって、阿弖流為が自分を犠牲にするつもりだって知ってあんなに必死になってくれたんだもん。

伊佐西古*前山くん
→ガランチードでの劇団員のイメージが強くてうーんて感じだったけど、今回は良い役だった!
蝦夷達の中には仲間を傷つけた阿弖流為に対してちょっと不信感を持ってしまう人もいたけど、イサセコはずっと阿弖流為の味方をしてくれてた!うれしい!
背中に何背負ってんだろって思ってたら、まさかの子どもたち…!とと様って感じには見えないけどw
嫁と子どもの為なら頑張れるっていう役は良かったと思うし、基本ぴょんぴょん飛び跳ねててかわいかった。最後まで阿弖流為を見守ってくれてありがとう。

物部矢仰丸*鳥ちゃん
→鳥ちゃんもっと見たかったよ~。阿弖流為と仲良しで、あてるいーって走っていってぴょんって抱きついて降りて、阿弖流為のお腹をぽんってするところとか真志と鳥ちゃんの仲の良さが伝わってくるw
物部氏もなかなか厳しい状況。物部兄弟のやりとりが…経済的に厳しくなりながらも本当のことを言わずに笑顔で蝦夷たちを勇気づけようとした矢仰丸が健気で可愛く、辛かった。
彼もまた、気になる役者さん。

郷手&鶉*こばけんさん
→二役こなしていました。一幕では阿弖流為のおかげで蝦夷達の仲間になった郷手。すぐ死んじゃうけどw
「えっ俺死にそうなの!?一幕も終わってないのに!?」って言ってすぐ死ぬの笑えるんだけど、阿弖流為のせいだから笑えないしこの微妙な空気感るひまだなって思いました。
こばけんさんがいることによる年末るひまらしい安定感半端ない。

鶫*井深くん
→ゴリラ連れたオカマでした。はい。
井深くんは今回こばけんさん演じる鶉と双子設定。無理があるww
エチュードの時には「田中邦衛パウダー」を掛けられて田中邦衛さんのモノマネを強要されるも「元に戻るパウダー」を掛けてもらえずというww
しかし、可愛かった。あの衣装が似合うのは井深くんだけ!
「人前で双子って言わないで!僕たちなんて呼ばれてるか知ってる?ゴリラ連れたオカマだよ!」

他にも触れたい人はたくさんいるのですが、これ以上書くと長くなりすぎるのでやめます!
今回はほぼセンターの2列目という最高の席での観劇で、とにかく役者の表情はよく見えるし素晴らしかったけどるひま年末ってこんなだった?というような容赦ない話だったせいで二部は心が荒んでユニットどころではなく(笑)

とりあえず、この素晴らしいお芝居についてすべて吐き出してしまいたかった。

泣いている人を見るより、泣くのを我慢している人を見る方が辛く悲しくなる、という言葉に納得させられた。

笑い納めではなく泣き納めになりましたが、久々にキャラクターにこんなにも入れ込みました。楽しかった。