Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

1/29「幸福な職場」世田谷パブリックシアター


観ている間、なにもお涙頂戴シーン満載というわけでもないのに、何度も涙が出てきた。
それは、この話が”実話”であるということを実感すればするだけ温かい気持ちで胸がいっぱいになって止まらなかったからだ。
脚色されていることはわかっている。けれど、現在のこちらの会社の取り組みを見れば、会長さんのインタビューを見ればわかるように、大事なところは全て”本当”なのだ。

世の中、捨てたもんじゃないなって思った。
そして、私もまたこうありたい、こうなれるんじゃないかって思えた。

この作品は『全国初の心身障害者雇用モデル工場第1号となった日本理化学工業が、昭和30年代、初めて知的障害者を雇用した時の物語。』公式サイトより

 

とっても優しく心の広い経営者が、知的障がい者の人が雇用先がないならうちが積極的に受け入れよう!と言いまして、その考えに、従業員たちもすぐに納得!
心優しい専務と社員の方のおかげですぐに仕事を覚え、幸せになったのでしためでたしめでたし!

なんて簡単には、いきませんでした。

昭和30年代のお話というわけで、私自身、なんなら母さえ生まれていない時代のことは私にとっては想像するしかできない。
けれど、今よりもずっと障がい者と呼ばれる方への偏見や差別が強かったであろうということはわかるし、それは作品中に使用される言葉から見てもわかる。
そんな時代に、養護学校の先生の熱意に折れる形で”雇うのではなく実習”という条件で、知的障がいを持つ聡美ちゃんを受け入れた会社。
専務や、従業員たち、先生、それぞれが触れ合い苦悩し、知ることで変化していく。決して簡単にはいかなかった決断へ進む、そして今へと繋がる物語。

 

基本的には経営者である専務(安西)の視点で話は進む。
彼は、父親が亡くなったことで会社を継いだものの、役人出身の彼をよく思わない者もいて社員との信頼関係がうまく築けていないし、経営についても悩みは尽きない。
そんな中やってきた養護学校の佐々木先生(馬渕)の「うちの生徒を雇って欲しい」という言葉は悩みの種にしかならなかったと思う。
作中では先生に土下座までされて頼み込まれていて、普通の人ならそれだけで戸惑うし、頼むからそんなことをしないでくれと思うだろう。

専務は、従業員を雇うことは何十年とその人の生活を預かることになる、今はお母様が生きているからいいけどその後のことはどうする。箸の上げ下げまで面倒見切れないと本音を言った。
私は、この言葉にとても納得したし、優しく責任感がある人の言葉だと思った。

しかし、その後の先生の「それなら安心してください。彼女たちの寿命は短いです」という悲痛な表情で告げられた言葉に、言い表せない何かが突き刺さってきた。

施設に入れば彼女は働く幸せを感じないまま死ぬことになってしまうと、先生は言った。
専務は、聡美ちゃんを実習生だから給料は払えないとして迎え入れた後も佐々木先生の話から、彼女たちのような子は施設に入ると手術を受け生理をなくす、つまり妊娠できないようにされると教えられる。職員の手を煩わせないように、望まぬ妊娠をしないように、同時に愛した人の子どもを産むという夢さえも取り上げられてしまう。
大学では法律を学んでいながら何も知らなかった、とショックを受けている専務の姿はこちらも堪えた。私も知らなかったからだ。
その事実だけでなく自分の無知も突きつけられ、言いようのないショックがあった。

物語が進むと、聡美ちゃんの楽しそうに仕事をする姿に心を打たれた社員たちがどうにか彼女がこのまま働けないかと考えるようになる。
そして、久我さん(谷口)と原田(松田)が配送の仕事で不在の日、専務が聡美ちゃんのテストをしてみるものの二人の手助けがなければ満足に仕事ができないことを知る。
計量をするにも時間を見てボタンを押すにしても、聡美ちゃんは数字が読めないのだ。
雇ってあげたいという気持ちだけがあっても、経営者としてはそれだけではやっていけない。
「経営者として従業員に迷惑を掛けていた」という専務の言葉に、聡美ちゃんは密かに想いを寄せる原田に自分が迷惑を掛けていたと知る。
そこで聡美ちゃんが会社に来れなくなってしまうなど問題が発生するが、そのことをきっかけに専務は聡美ちゃんが色の認識はできるということに気付く。

そうして、計量は色で判別させ、時間は砂時計で説明するなどアイデアを出した。

「仕事に人を合わせるのではなく、人に仕事を合わせる」とは住職(中嶋)からの言葉だった。専務はそれを実行することに成功した。
彼らは、聡美ちゃんを思いやることで自分たちの作業効率も上がることを知った。
明るい彼らの表情と共に、自分の心にも光が射すような、何とも言えない温かさが胸に広がった。

実習が終わる日、専務が給料をひとりずつ手渡していく。
最後に、聡美ちゃんにも給料をくれた。
そして「正社員として迎えたい」と言ったのだ。
よく理解できてない聡美ちゃんと、泣き崩れた先生。

それから50年。時は経ち、久我さんの息子が専務──現在は会長、の元を訪ねる。
時代に合わせて必要とされるものは変化していく。それに対応してくれたのは社員たちだ。
そう答えた会長に久我さんの息子が「それで、その人はいまどちらに?」と聞くと「今お茶を出したでしょう」と言う。
勤続50年。変化する時代に合わせ会社を支えた社員のひとりには、今も聡美ちゃんがいる。


実際、聡美ちゃんのモデルになった方はすでに退職されているけれど本当に長く働いていて今も存命で聡美ちゃん役の前島さんがインタビューをしていた。
作中、障がい者の人の寿命は短いと言う話が出るけど、その人はそれに当てはまっていない。
それは、働くことで人の役に立ち人に必要とされる幸せを得て充実していたからなんだ、とこの舞台を観た人は必ず思うはずだ。

この作品は、リアルに人が生きていて、誰の気持ちにも少しずつ共感できるところが凄いところだった。
そりゃもうすごい、だって、聡美ちゃんにだって私は共感したのだから。

常に悩み雇ってあげたいけれど社員の生活が、会社が…時には「君が迷惑をかけている」なんて言葉さえ言ってしまった専務の気持ち。
子どもがもしかしたら何らかの障がいを持って生まれてくるかもしれないという不安を持ちながら、聡美ちゃんに優しく接する久我の気持ち。
近隣の人からの視線に耐えきれなかったり、仕事に持つ理想から聡美ちゃんのことを受け入れきれずにいた原田の気持ち。
大事に教えてきた生徒のため、どうにかはたらくという幸せを教えてあげたい、知ってほしい先生の気持ち。
好きな人に愛されたい、子どもが欲しい、「いつかあなたとてをつないであるきたい」聡美ちゃんの気持ち。

住職は立場上違う目線から描かれているが(それでもおちゃめなところがあったりする)、皆が皆ただ優しい人として存在するのではなくそれぞれの立場から色々考えていて社会人としてのシビアな面もありつつ、けれど人間として相手を思いやる心もある。その両方が混在した中で、聡美ちゃんという人を軸にそれぞれが答えを出している。
それに、彼らは聡美ちゃんの親や兄弟でもなんでもなく、あくまで他人でありながら会社というひとつの組織の中でこれだけ心が繋がっている。
その結果が会社の成長にもなっているのだから、本当に凄いことだ。


私は知的障がいを持つ人の気持ちを全て理解することなんて絶対にできないけれど、それは健常者同士だって同じことだ。
健常者だから障がい者だからというのではなく、できるできないから、ではなく。
誰に対しても思いやる気持ちを持てるよう心掛けることがまずは大事なのだと思う。
私自身が専務や久我や原田、そして先生のように振る舞えるかと言ったらわからない。その時になってみなくてはわからない。けれど、まずはこういう実例があるんだと言うことを知れたことが嬉しい。できるかもしれない、と思えるのだから。
同時に、いま私はどれだけ人とコミュニケーションが取れているだろう、相手を思いやった会話ができているだろう。そんなことを考えた。

 


安西君のお芝居は相変わらずとても良くて、スッと心に入ってくる。
彼の芝居を見ている時は、素敵な舞台、素敵な小説、素敵な映画に出会った時の感動をずっと味わっているような気分になれる。
何より、アフタートークでも言われていたけど安西君のまっすぐさが大森専務にとても合っているんだろうなあ。
またこういうエリートっぽかったりする役かと思っていたけど、今回は幸せで真っ当な人生を歩んでいてくれてよかった。
松田君は、聡美ちゃんに対しぶっきらぼうだけど惚れられてしまうという説得力がまず容姿からあって(笑)
そして、原田の微妙な心境の変化が感じ取れるのがとても良かった。原田みたいな人はね、多いと思う。
賢志さんは、単純にかっこいいなあと思っていたんですけど聡美ちゃんに出会ってからの優しい雰囲気や生まれてくる子どもに対する不安を吐露する場面、また原田への苛立ちなどワイルドな容姿に反して繊細なお芝居がうまいなと思いました。
馬渕さんと言えば私の中ではDステの検察側の証人なんですけど、雰囲気が全然違うのでびっくり。
聡美ちゃんや生徒に対する優しさ、専務の無知に対する責めるような視線、感謝の涙…先生が下手な人だったら感動しないだろうなと思う。馬渕さんで良かったです。
中嶋さんはお茶目な住職なんだけど、締めるところは締めるというか大事な台詞の時の声のトーンがさすがベテランだなと思いました。
そして、一人違う住職という立場からの助言などの雰囲気の差みたいなものが凄く良かったです。
そして、聡美ちゃん役の前島亜美さん。彼女が良かったから私はこんなにも感動したのだと思う。役自体はとても難しかっただろうし、どう演じたら良いのかきっと悩んだはず。でも、彼女はただ真っ直ぐに演じることが楽しいと表現してくれた。アフタートークでもそんな話をしてくれたけど、どう演じるかとかそういう理屈っぽいところではなくその素直な表現が聡美ちゃん自身の純粋さとリンクしているのだと。だからこんなに聡美ちゃんが魅力的だった。
”アイドル”と呼ばれる子にもいろんな子がいる。舞台に立ってうまい子もそうでない子もいる。彼女は間違いなく、もっと舞台で可能性を広げられる存在だと思う。

 

簡単なはずなのに、実は難しくてそれでいて大事なことを今一度考える、思い出すきっかけをくれる。
専務のアイデアから導き出された”聡美ちゃんに合わせることで、みんなの作業効率も上がる”というひとつの答え。
できるから良いのではない。常に相対する人を思いやる心があれば、それをみんなが持てれば、物事は良い方向へ向かっていくはず。
理由があるから思いやりを持って接するのではなく、誰のことでも思いやれる人間でありたい。

とても良い舞台でした。久々にこんなにあたたかい話を観た。


『人に何かをしてもらったら「ありがとう」』から始めよう。

1/18「フランケンシュタイン」日生劇場

 

”怪物”とは何か。

 

まず、間違えてはならないのは「フランケンシュタイン」とは、怪物の名前ではないということ。
有名な映画の影響か、『怪物くん』の影響か、私はてっきりフランケンシュタインは頭にボルトが刺さったモンスターのことだと思っていた。
実際は、この怪物を造った人の名前がヴィクター・フランケンシュタインという人であった。

 

本作でも、主人公のビクター・フランケンシュタインが怪物を産みだしている。

では、怪物とはなんだろうか。

怪物は、怪物であったり化け物であったり、さまざまな呼ばれ方をしているが決まった名前はない。
名前”さえ”ないのだ。


ちなみに私が観た回は
ビクターandジャック:中川晃教
アンリand怪物:加藤和樹

 

1幕は、生命創造の研究をしているビクターが戦場で軍医アンリに出会い、処刑されそうになっている彼の命を救う。そこから友情が生まれ、二人は親友となった。ビクターにとって初めての心からの理解者であり友人だった。
しかし、ビクターが関係する殺人事件の濡れ衣を自ら被りアンリは処刑されてしまう。君以外この研究はできない、君の為なら死んでも構わないのだと。ビクターは、その首を盗み親友の命を再生させることを誓う。
ところが、雷に打たれ命を得た男はビクターの知る親友ではなく、アンリの頭を持つ継ぎ接ぎだらけの"怪物"だったのだ。
赤子同然の知能でありながら怪力を持つ怪物は故意ではなくビクターを襲い、そして、ビクターの執事を殺してしまう。ビクターが怪物を銃で撃ち殺そうとするも、怪物は窓から飛び出して逃げて行った。

 正直、この一幕を観ていまいち楽しめずにいた。
韓国ミュージカルというのを今回初めて観た。なるほどパワーがある、ヨーロッパやBWのミューと並んでやろうという気概も感じる。
でも、曲も脚本も今一歩だなあという印象。他の作品を観ていないから何とも言えないけど、日本も含めアジアはミューではまだまだだなあと思った。
とはいえ、これだけやってやろう!というクリエイターがいるのは凄いことだと思う。しかし、どうにも一幕は退屈で曲は難解すぎて耳に残りにくいし(エリザやロミジュリは偉大)、ビクターが殺人を犯すくだりとか雑!!
それを吹き飛ばすほどの魅力のない曲はどうなのか。
おいおいこれは二幕大丈夫か?楽しめるか?と思いつつの二幕。

 巷では一幕が人気のようでしたが、私は二幕の方が断然好きです。

 二幕は、怪物となってしまったアンリの見てきた人間の世界が中心となって構成されている。
一幕からすでに三年が経っておりビクターはジュリアと結婚していた。
平穏な生活の中でもビクターはずっと怪物への恐れが拭えずにいた。
そして、とうとう怪物は戻ってきた。ビクターに復讐するために。
創造主よ──怪物は語る、三年の間に自分が何を見てきたのかを。
人間がどれだけ醜いのかを。

怪物は、鉄のベッドで生まれビクターに首を絞められたことから記憶が始まっている。
言葉も知らず、人に追われ、寒さと空腹と、孤独に苛まれていた。
闘技場を営む夫婦に拾われ、そこでカトリーヌという下女に恋をする。
しかし、カトリーヌに裏切られ更に彼女の悲惨な姿を目にしてしまう。
人間の醜さを知った怪物は、その闘技場に火を放つ。
最後には、北極と言う地でビクターとアンリが死んでしまうというラスト。

 二幕、特に前半が楽しかった!!
見世物小屋や闘技場、そして人間の汚れた欲望。そういうのがぎっしり詰まった二幕前半凄く好みです。

そして何より加藤さんの怪物最高でした。
この人はおそらく、本人がどう演じようと基本的には”品よく”見えてしまうタイプだと思う。パーソナルスタイル的な問題で。
同時に、悲劇的な展開が大変似合うタイプでもある。
ただいるだけで、目を伏せれば物憂げな表情に見える。役者としてはとても画になるタイプで舞台に立つのに向いてる人だと思う。くわえて、声は甘く低く、それも若々しく青年のような甘ったるさじゃなくて、大人のセクシーでロマンチックな声。
何気にミュー界には、特に若手にはあまりいない影のあるタイプ。
とは言っても、歌声は少々本格ミュージカルにしては硬いというか音域もあまり広くないし、柔軟な歌声を持つアッキーと並ぶにはきついのでは?と思っていた。

 

正直、一幕では割とその印象から変わらずでした。
アンリというキャラクター自体は、エキセントリックで癖のある生粋の天才中川ビクターを見守り受け止めることのできる落ち着きを持っている。
科学者であり、ビクターと同じ研究への欲求を持っていながらも神への領域に入ることを理性と良心で踏みとどまった人。
とろけた声で「君の瞳に恋をした」なんて歌い、ビクターのために死んでいく姿は、さすが横に立てばどんな女優も可愛く見せてしまう加藤和樹様…!という感じで中川ビクターも可愛らしく見えた(笑)
しかし、怪物と呼ばれる存在になると一変、腰布一枚で鉄のベッドの上をのた打ち回り、生まれたての赤子のような存在になってしまう。母親と遊ぶ子どものように無邪気ににこにこと笑い、ビクターにじゃれ付く。この人、こんな芝居できたんだ!!と驚いた。

そして、怪物が闘技場に拾われカトリーヌに恋をするシーン。
ようやく言葉を覚え始めてきた彼が、下女カトリーヌとする会話。

「あなた、私をクマから助けてくれた!」
「クマ オイシイ(にこにこ)」

 こんな姿見たことない!!と、私にとってはなかなかの衝撃でした。

鉄のベッドで生まれ、自らを産みだしたビクターには怪物扱いされた彼が、初めて心を通わせた人間がカトリーヌだった。
下女である彼女は人間から酷い仕打ちを受けているため「あなたは人間じゃないから怖くない」と言った。
「私、北極へ行きたい!そこには、人間がいないんだって!」
いつか、北極に二人で行けたら…二人のデュエットがとてもロマンチックで美しかった。
けれど、それを闘技場の主人に見つかってしまう。女主人は「色気づいたか?」とカトリーヌに暴力をふるう。

 カトリーヌもまた、可哀想な女だった。
怪物と心を通わせたせいで主人の手下に襲われ、ボロボロになっているところに「自由にしてやろう」とそそのかされる。
その条件は怪物に毒を飲ませること。
カトリーヌは迷いつつも決断する。この時の歌を聴いた時、私はこの作品を観に来てよかったと思うくらいの価値を感じた。
音月さんを見るのは宝塚最後の仁以来で(怪物にわかりやすく言葉を話しかける時が仁先生がおばあちゃんにワカメを勧めている時を思い出した笑)
まだ女性としての音域は狭いところが惜しいけど、力強い歌声でカトリーヌの心情が痛いくらい伝わってきた。父に犯され母に売られ、服も心もズタズタの自分。それでも生きたい。
明日は自由になって、人になれる。そうすればもう誰も自分に唾は吐かない。人になるため、カトリーヌは怪物に毒を盛ることに決めた。
『誰かが足を洗った水で 喉を潤した』という歌詞があまりに衝撃でハッキリ覚えている。
彼女は怪物を裏切ったけれど、それでも生きたいと叫ぶ彼女を責める気にはなれなかった。

 このことは女主人にバレ、カトリーヌは自分をそそのかしてきた男にも見捨てられてしまう。
彼女は女主人によって、酷い殺され方をするだろう。
怪物から視線を向けられると「こっちを見ないで化け物!!」と返した。
ここで、少しの違和感がある。

その違和感がわかるのは、散々痛めつけられ焼き鏝を当てられた怪物が『俺は怪物』を歌った時。

 まずは、その歌の上手さに驚いた。歌よりも芝居で魅せる人というイメージだったけど、今回は芝居も歌も以前(レディベス)よりずっとこちらに力強くなっていて本当にびっくりした。ボイトレをして音域を広げたと言っていたけど、すごい進歩だと思う。
怪物の心の叫びと悲痛なシャウトに心を奪われた。

 そして、さっきの違和感の理由。
怪物には名前がない。彼の創造主であるビクターは彼をアンリと呼んだけれどアンリの頃の記憶がないと言う彼はアンリではない。
そして、怪物と呼ばれ、カトリーヌには化け物と呼ばれた。

そんな”怪物”だったり”化け物”であったりする彼は、ひとりぼっちであることに寂しさを覚えている。
彼は確かにルンゲを殺したかもしれないが、故意ではなく事故のようなものだった。自分の身を護ろうとしただけなのだ。
『血は誰かの血 肉は誰かの肉』
では、自分はなんなのか。人間でもなく、ただ気まぐれに作られただけの何か、ひとつの命なのに。
ビクターの自分勝手で生み出されただけなのに。普通の人として生まれたならば、親からもらう最初のプレゼントになるはずの名前。彼は名前さえ、生みの親からもらっていないのだ。
カトリーヌをクマから助け、言葉を話し、心を通わせ、孤独を嘆く彼は怪物か?化け物か?

 人が勝手にそう呼んだだけではないのか?

 ”怪物”からしてみたら、自分を殺そうと銃を向け、戦わせ、面白半分に拷問してくる人間の方がよっぽど怪物だ!

そういうことなのだと気付いた。
この作品はメインが一人二役で、ビクターは闘技場の女主人の旦那であるジャック、アンリは怪物、ジュリアはカトリーヌ…というように。
解釈として、人は環境が違えばまったく違う人間になってしまうということなのだろうと。
私は特に、ジュリアとカトリーヌを同じ役者が演じるというところに意味を感じた。

音月さんは、(その解釈を踏まえて演じられるほど)自分は器用ではないから別人として演じると言っていたけど、もちろん別人でいいのだと思う。
でも、両親に大事にされお嬢様として育ったジュリアも、もし両親に捨てられ虐げられながら生きてきたらカトリーヌになってしまうのかもしれない…という、もしもの可能性が、同じ役者が演じることによって伝わってくる。
カトリーヌだって、怪物と心を通わせた優しさと人間らしさを持っているのに、それでも良心を捨て怪物を裏切った。生きたいから、現状を変えたいから!
生きたい抜け出したいと思わざるを得ないその環境が、彼女を怪物にした。

 つまり、誰しもが”怪物”になってしまう要素を心に持っている。

 そういう意味での、一人二役であり、怪物が名前さえ持たない意味なのだろうと思います。

 二幕はその後、怪物の復讐劇が始まる。
演出として一番好きだったのは、ビクターの姉であるエレンのシーンです。

濱田めぐみさんは、この作品で初めて見たんですけど優しく包容力のある歌声と、シャウトまでする力強さとのギャップ、使い分ける技術に驚いた。
エレンが濡れ衣を着せられ、絞首刑にされてしまう場面。
死を迎えることへの「さよなら」と、幼い頃留学をするために姉弟が別れることになった時の回想の「さよなら」を掛けている。
弟を想う優しい歌声と「今度あなたに会えたら 私がぎゅっと抱いてあげるから」という歌詞。
エレンの深い優しさと愛が伝わってくるのと同時に、死んでしまう彼女にはもう二度と会えない「今度」などないという矛盾があまりに切なく哀しい。
全てが最高で、私も両隣も泣いていた。去っていくエレンに「行かないで 姉さん!」と初めて子どものようになってしまったビクターにも泣けた。

 この後、ビクターは姉もアンリと同じように生き返らせようとする。
このあたりからは「え?ビクターまた!?同じことするの!?」って感じで、いまいち入り込めず(笑)
ジュリアの死のあっけなさとか、リトルビクターと怪物のシーンとか…観客の解釈に委ねすぎのような…。
ただ、怪物が北極に行ったという事実はなんとなく切なくなった。

 演出の板垣さん(今回は板垣さんの演出目当てでもあった)も言っていたけど、韓国ミュージカルは脚本が甘いということなのかもしれない。
でも、原作のテーマも良いし、アンリというオリジナルキャラクターも設定も良いと思うので、もっともっと練り上げたらすごく良くなりそうな気がする。

 そして何より、キャストの熱演が良かった。怪物のことばかりに焦点を当てすぎたけど、アッキーのビクターの天才っぽさが好き。
アッキーは歌うことがあまりに自然だから、台詞を喋っているのか歌っているのか、わからなくなりそうなくらい。突き抜けるようなハイトーンボイスは、定期的に聴きたい。

 このミュージカルを観たことで、原作が気になって今読んでいるけどとても面白い。舞台ではわからなかったところも少し補間されたり、逆にビジュアルイメージがあるからなんとなく伝わってくるものがあったり。ただのモンスターパニックだと勘違いしていた自分を殴りたい。わくわくして、ドキドキして、ロマンにあふれていて、切なさと人間の探究心や欲求の罪深さを感じる。

私は自分が人造人間とか人体実験とか錬金術とか、現実的に考えたら「え?」なSF設定が好きなのだと知った。ライチ光クラブも似たようなものかもしれないな…。

 

文句も書いたけど、CDが出たら買うし、このキャストで再演があったら絶対に観に行く。

 

12/30「刀剣乱舞 虚伝 燃ゆる本能寺(再演)」銀河劇場

 


初演は配信で初めて見て興奮して、DVDは何度も観た。
再演は絶対に生で観るぞと意気込んだ。
映像と違って、全体を見るのも双眼鏡を使って一点を見つめるのも自由。
初日から話題になっていたように初演とは少しだけ、けれど大きく意味のある演出や脚本の変更があった。
気になる台詞も、派手になった殺陣も、見たいところはいくらでもあった。
それなのに、どうしてもへし切長谷部から目が離せない瞬間が多すぎた。
彼を見ながら、何度も息を飲んだ。

へし切長谷部という刀剣男士について、そこまで深く考えたことはなかった。
一番好きなキャラクターではあるし、刀について書かれている本も読んだりしたのでそれなりに来歴は知っている。二次創作も読む。
でも、刀剣乱舞はゲームもメディアミックスもふわっと楽しんでいたところがあるし、刀剣男士それぞれ本丸ごとに印象も違うとなるとキャラクターについて深く考えても意味がないような気がしていた。
だから、私の中の『へし切長谷部』というキャラクターはそこまで固まっていないし、よほどのことがない限り解釈違いということもない。
ゲームでも花丸でも刀ステでも、どんな長谷部もだいたい好きだ。

それが初めて、この”とある本丸のへし切長谷部”について色々考えることになった。
ハッとさせられたその瞬間の感情はうまく言葉にできない。理屈ではない部分で、どうしようもなく胸が震えた。

まず、初演と再演で芝居自体がだいぶ違っていることに驚く。
初演のDVDは何回も観ているから、和田部の台詞回しや声のトーンは(その一公演分だとしても)頭に残っているし、映っている限りは表情もよく覚えている。
だからこそ、再演を観てその違いが明らかだった。

織田の刀に対する声色が優しくなっている。
「俺の中の信長を知ってどうする」
宗三に対するこの台詞、初演の時はもう少し突き放すような、それでいて自嘲も込められているような言い回しだった。
それが、柔らかく優しい諭すような声色になっていた。
そしてこの時、宗三に言いたかったのはおそらく不動に向けた

「俺たちにではなく、自分の心に問え」

この台詞を、和田君は一番好きな台詞としてりんたこで語ってくれた。
だからきっとこの台詞こそが、和田君が歩んできた刀ステ本丸のへし切長谷部なんだと思う。
このとある本丸のへし切長谷部はきっと、そうやって自分の心に問いかけてきて今があるのだ。
和田君は、個人的な解釈として長谷部も不動のように『歴史を変えたい』と考えたことがあるのではないかと語ってくれた。
自分だったらそう思う、とも。
けれど、同時に「主命とあらば、なんでもこなしますよ」という長谷部を象徴する台詞のとおりに今の主のことも想っている。(若干意訳してます)

和田君がそうしてたくさん考えてくれて辿り着いた解釈の先に、不動を見るあの表情がある。
明智光秀を殺せば信長は死なない、それをわかっていながらできずにいる不動を見る表情。
これを劇場で見た時は胸が詰まるような思いがした。なんて顔をするんだ、と思いながら泣きそうになったのを覚えている。
もし不動が光秀を傷つけるようなことがあればすぐに対処できるように、と刀を抜いて構える薬研と長谷部。ブレずに真っ直ぐ不動を見据える薬研とは対照的に、長谷部の表情は苦しそうで手に力が籠るのか剣先が震えていた。
彼の中には『不動を止めたくない=信長を助けたい』という気持ちがほんの僅かだとしてもあるんだ、と思うと堪らなかった。
和田君の「歴史を変えたいと思ったことがあるのではないか」という解釈がここで生きている。
信長を憎む気持ちと同時に、顕現したばかりの頃の自分と重なる不動の考え方や行動への同族嫌悪のようなものが彼の中にはあったのかもしれない。

そして、信長が自刃して果てるその瞬間。
初演ではただ見つめるだけだった長谷部が、悲痛な表情を浮かべて首を横に振り、信長に向けて手を伸ばす。

へし切長谷部という刀は、人の身や心を得るにはなんて生きづらそうな刀なんだろう。

信長に対する思いにしても、長政様に対する思いにしても。
(おそらく)大好きだったのに下げ渡されたから、憎む。
大好きだったのに置いて逝かれたし共に逝けないから、忘れる。
過去のことでさえ、そんな不器用で極端なやり方でしか自分を保っていられない。
物である彼らに人間のような生死の概念は元々ないはずなのに、しょせん自分は物で相手は人間だからと割り切れない心の豊かさが彼自身を傷つけている。
不動のように表に出すことができたら違うのかもしれないけど、この刀はもっと複雑に考えることができる分損だ。

人は誰であっても死ぬ、信長であっても同じことだと不動に冷たく言っていたけれど、長政様の死に強く心を痛めていた長谷部だったからこその重みのある言葉なんだろう。
きっと、彼を作った人、主だった人。
それぞれが、へし切長谷部に対してそういうたくさんの想いを込めて扱ってきたからこそ、付喪神として顕現した彼がこんなにも人間らしい心を宿しているのかもしれない。

本能寺の変では、すでに黒田家にあった長谷部にとっては元の持ち主である信長の死を目の当たりにするのは本丸に顕現してからが初めてということになる。(刀ステ時点での出陣回数は不明だけど)
信長の死に辛そうな表情をしていた彼が、気持ちを切り替えて光秀を護るために戦う。

「主に仇名す敵は切る!」

と、やはり今大事にすべきは現主なのだと理解している。
歴史を変えたい、という気持ちを振り切った彼がこうして真剣必殺している。

そして、明智光秀の言葉。
「あのお方に必要とされたかった」
「あのお方に見捨てられるのがこわかった」
この言葉にハッとするような表情を見せる長谷部は、きっと光秀の中に自分と重なるものを見つけた。
和田君自身も、長谷部には不動や宗三、薬研とはまた違う明智光秀と通ずるものがあって、だからこそああいうお芝居になったのだと言っていた。
他の三振りには直臣でもない者に下げ渡された長谷部の気持ちはわからないだろう。
不動が長谷部に対し「ちいせぇな~」なんて言うシーンがあるけど、可愛がられていた蘭丸の手に渡った不動に何がわかる?と思ってしまう。
その中で、若い蘭丸と比べて老いていくことを恐れ、ただ必要とされたかっただけだと願う光秀に長谷部は一瞬でも自分を重ねていたはずだ。
和田君は初演よりも人間らしく演じたい、と希望していたと語ってくれている。どう演じるかのプランを立て、そしてあとは舞台上で生まれてくる感情のままに。舞台中はいろんな感情が入ってきて、終わった後は身体とは別の部分でとても疲れていたと。
それだけの熱量を、想いを込めて演じてくれたのは観ているこちらにもしっかりと伝わってきた。

刀ステ長谷部の背景には、彼が刀として背負ってきた歴史、本丸に顕現して肉体を得てからの葛藤や変化、そして優しさが見えてきてとっっても嬉しい。
へし切長谷部を好きでよかったとも思うし、和田君が長谷部として歩んでくれて本当に良かったと感謝でいっぱいです。

和田君は、もっとキャッチ―な芝居をするイメージがあった。
キャラクターを捉えるのが上手だし、2.5次元向きだなと。
原作ファンの喜ぶところを抑えつつ、ギリギリのラインを攻めるのも上手という印象だった。

2.5次元で上手だなと思う役者さんには、私の中で二通りあって
ひとつは、キャラクターが原作から出てきて三次元にいるかのように演じるのがうまい人
もうひとつは、キャラクターが現実を生きているように演じるのがうまい人
キャラが三次元にいるのと、現実に生きているというのは似て非なるものだと考えている。

どちらが良いということはなく好みの問題で、和田君は前者のタイプだと思ってた。

でも、今回のへし切長谷部を見てイメージが変わった。
こういうお芝居をするんだ!!と、驚かされました。
演目全体のことにしても、キャラクターのことにしても、深くまで自分なりに考えてそのうえでプランを作りその時その時を生きているんだなと思うと、嬉しい。
和田君は「演じました」ではなく「歩ませて頂きました」と言うけど、それも上っ面だけじゃなく中身が伴っている。
その人物がこれまでどういう人生を生きてきたか、が伝わってくるお芝居をする役者が好きなんだけど和田君もそうなのか。
これは、2.5次元以外での和田君も見たくなってしまうな。
今まではただ「可愛いな、かっこいいな」だったのに本格的に役者として気になってしまうと、これはまた推しが増える。

もちろん、長谷部や和田君だけでなく、他の人もそれぞれの思いを抱えて演じていたのが強く伝わってきました。
それは座組全体を通してもそうで、今回メインは新キャストが二人いるけど仲の良さや信頼がこちらにまで届いてきて和みました。
末満さんがキャストを信頼しているからこその難易度の高い殺陣も、派手で見応えがあってエンタメ感が増していて楽しかった!
殺陣が長すぎると飽きるし、短いと物足りないけど、末満さんとはそのあたり相性がいい気がしています。

荒牧くんは元々殺陣が綺麗だけど、今回はブログで語ってくれたように印象に残る技もあって改めて凄いなと感じた。
いち兄と鯰尾、廣瀬くんと大志くんのコンビネーションも良かった。

宗三ヒデ様の踊るような殺陣はやはり生で見ることができて良かった…。
ダンスがうまいし手足がしなやかだからか、ひとつひとつの動きがステップみたいで、その流れるような動作が宗三のイメージに合ってる。

鶴丸の健人くんは、染様の鶴丸があれだけ良かった分どうなる?と思ったけど、違うタイプの鶴丸を演じているのを見ておお!となりました。
染様の鶴丸はまさに「年の功」っぽいズルさみたいなものがあったけど、健人くんはもっとトリッキーでマジシャン的な掴みどころのない雰囲気があった。


私が見た回は軍議がきんつばミュージカルだったり(笑)
不動と客席のやりとりだったり、紅白戦で見せた燭台切の長谷部への挑発の仕方だったり、最後の鶴丸の山姥切への無茶ブリだったり、笑いもいっぱいありました。

興奮しながら観ていたのでところどころ記憶が飛んでいるけど、とにかく楽しかった。
観に行ってよかった、観に行けて良かった。

織田信長ほど有名でロマンのある武将はいないと思うし、そのうちひとつの”虚伝”を見ることができてよかった。
やっぱり、戦国武将好きだ。
『虚伝 燃ゆる本能寺』は終わってしまったけど、また次があると思うとうれしいです。


まずは、チケ取りの陣にて勝たなくては。

 

 

2016/12/18 『RENT』20周年記念ツアー 来日公演

 

「RENT」以上に大好きなミュージカルは、もうこの先現れない。

 今までも思っていたことだけど、やっぱりそうだと確信した。

 この作品のパワーは、何度観ても変わらない、色褪せない。

 

今日という日、今この時、そして家族、友人、

自分が誰かに向ける愛情や、自分が受け取る誰かからの優しさ、

それらがどれだけ尊くて大切なものなのか、観るたびに教えてくれる。

 

有名作品だからと何気なくレンタルした映画を観てから、すっかりRENTの虜になり映画もBW版も何回も観た。
日本版にも何回も足を運んだ。
いつか、この作品を英語のまま生で観たい、聴きたい、感じたい、と望んでいた。

 

それが、ようやく叶った!!

原曲は英語だし、もちろんそれに合わせてメロディが作られているから日本語訳で聴くよりも耳馴染みが良いし言葉遊びのリズムが心地良い。

あと、日本版は基本的には日本人(ハーフの方も多いけど)が演じているので、キャストの体格に差がない。
来日版のキャストはやはり体格差や喉の違い(特にコリンズやジョアンヌ)があって、これだなあ~~!とそれだけで感動した。

 

出来る限り字幕を見なくていいように少しだけ英語の勉強もしたけど、もうすでに何回も観ているおかげかほとんど字幕を見ることはなく。
なんて訳されているのかな?って気になって数回チラ見した程度で、あとはもうフィーリングで入ってくる。
曲や作品の持つ力が、言葉以上に伝えてくれる。
というか、ステージを見るのに忙しくてそんな暇もない!笑

 

どの曲ももちろん大好きだけど、特に二幕のHalloween~Good bye love~What you ownまでの流れがとにかく大好き。

まずContactで高まってI’ll Cover Youのリプライズで、コリンズや仲間の想いに涙が出てくる。

けれど、その後にHalloweenでみんなの関係が壊れていってしまう様が、いつだって喧嘩を止めてくれたエンジェルがもういないんだって実感してしまってもっと泣けてしまう。

今回思ったのが、今まで日本版で観ていた時よりもマークとロジャーがより親友っぽく見えたなということ。

(マークがリア充っぽくてロジャーがちょっとなよっとして見えたからかな笑)

 

だから、二人が言い合うのはとても悲しいし「but who Mark are you?」の言葉が突き刺さる。

ミミが死ぬかもしれないとか現実を突き付けたり、マークが孤独から仕事に逃げているだとか散々言い合いした後にロジャーが「I'll call」って言うのが好き。
それでも電話はする。ちゃんと仲間で友達なんだなと思える。
そうして、別れを経てからの「What you own」。

 

日本版を観ている時も、映画を観ていた時も、この歌はなんだかとても印象に残る。心に響く。
理由を問われたら、きっとうまく説明できない。
曲だけで言えば「RENT」の方が好きで、歌詞が特別切ないだとかそういうわけではないのに、どうしてか涙が溢れて止まらない。

 「I'm not alone.」

 「俺は一人じゃない」

 そう言いながら二人が眩しいくらいのライトを浴びて歌う姿に、言葉にはできない何かを感じる。

改めて来日版を観たことで、私はけっこう日本版が好きなんだなと思った。

 

 

英語で上演するものが本物で、日本版を偽物とする気はないけどどこかそんな気がしていた。
けれど、そんなに悪いものでもないなって。

 

私の母国語である日本語だからこそ、ストレートに伝わってくるものがあるのだなと。

 

母国語のニュアンスだから伝わること、わかりやすいこと。そうした環境で観劇できるのは貴重なことでもあると感じました。

 

あと、去年のマークだった村井君の芝居はとても繊細で丁寧だったのだとも。
マークにしては声や表情が堅い印象だったけど、お芝居そのものは、特に二幕は、良かったと思う。

 

そして何より、モーリーンは断然ソニンのモーリーンが好みです。
はっちゃけ具合や客席を殴るような声、そしてコミカルなMooの煽り、小悪魔だけど憎めない、みたいな雰囲気が好きです。

 

さすがに全体的な歌やダンスのクオリティそのものは事務所や役者個人の人気云々が絡みに絡み合う日本版とは違って、平均が高かったけど。
なんというか、某エンジェルの悪夢は一生忘れないと思う。
来日版を観て、ここまでのことを、この若さで(今回カンパニー全体がかなり若い!)やってのける俳優がたくさんいるんだ、
というのを知ってしまったので私の中でさらにRENT出演者へのハードルは上がった(笑)

 

 

Mark:Danny Kornfeld
→ど~~~しても、アンソニー・ラップのイメージが強すぎるんです。
なんだかちょっと冴えない(失礼)だけど、歌うと声がイメージと違ってて、ロックな曲を歌うとかっこいい、みたいな。
今回の方は、アンソニーに比べるとキラキラしていたかなって(笑)
でも、あのセーターとマフラーを身に付けるマークが見られて嬉しかったです。
La Vie Bohemeの時に手を使わずテーブルに飛び乗って横たわったのを見てすげえ…ってなりました。
ジャンプした時にチラッと見えた腹筋がバッキバキに割れていたので、なるほどと納得。

 

Roger:Kaleb Wells
→最初に見た時はなかなかゴツい方だなって思ってたけど、やっぱりいつ見てもロジャーは繊細ですね。
日本版は特に去年堂珍さんが演じていてかーなーり繊細というか弱そうと思っていましたが、正直、今回のロジャーが今まで見た中で一番よわよわでした(笑)
ミミと一緒に死んじゃうんじゃないかとハラハラ。笑
そもそもロジャーってマークやコリンズにぐりぐりやられていじられたりもしているけど、そんな雰囲気が目立ったからでしょうか。
でも、歌は安定しているしロジャーの声で良かったです。

 

Mimi:Skyler Volpe
→背が高くてしっかりした体つきで、これが本場のミミかー!ってちょっと感動しました。
あの、BW版のDVDとほぼ同じ振付の「Out Tonight」が見られたことが嬉しくって嬉しくって。
この曲は本当にテンションが上がります。終わらないで欲しい。
ぼわっとした髪型がキュートで、声はハスキーだけど可愛かった。
そして例のごとく死にそうにはない(笑)

 

Angel:David Merino
→個人的に今回一番好きなキャストです。
演じてて楽しい!って感じのキャピキャピした可愛いエンジェルでした。
若々しいんだけど、やっぱりあのブーツのままでテーブルに飛び乗ったりしていて感動。
エンジェルはこうでなくちゃ!と実感しました。
包容力はちょっと物足りなかったけど、 誰よりもはしゃいで可愛くて、喧嘩の仲裁はいつもやってくれて、そんなエンジェルが死んでしまうからこそ悲しいのだと改めて思った。

 

Collins:Aaron Harrington
→声がコリンズだー!という感動がありました。
日本人とは骨格そのものが違うので出る声も違うなあと。日本版だとにSOLでコリンズが負けそうかも…と思う時があったけど、逆でした。
ATMのコード「ANGEL」を言う時のお芝居が可愛くって好き。

 

Maureen:Katie LaMark
→モーリーンの出番ってこんなに少なかったっけ?となってしまった。ちょっと印象が薄い。
ミッキーの物まねはギリギリ感あって好きだけどw
Mooの煽りもお尻出す時も、もっとはっちゃけてもいいのになあって思った。

 

Joanne:Jasmine Easler
→安定のジョアンヌ。声といい体型といい良い感じで嬉しかった。
日本版のキャストも上手な人が多いジョアンヌ。
「Tango: Maureen」好きだなあ。
歌がうまくて声量もあったので、マークに負けないというか勝ってる!ジョアンヌはこうでなくちゃ!

 

Benny:Christian Thompson
→思ったより小柄だったのでびっくり。
でも、私はやっぱりベニーが結構好きなんだよなあというか憎めないなというのを実感しました。
喧嘩の仲裁したり、みんなと一緒に居たがったり。
譲れないこだわりを持って生きる彼等の仲でベニーの選択は浮いていたのだろうけど、ベニーにはベニーなりのこだわりや夢があるんだ、と私は思う。

 

ウェイター
→ウェイター役の彼の、レギパン?的なものを履いた脚があまりにセクシーで気になってしまったので書き残しておく。笑

 

 


同性愛者、HIV、ドラッグ…夢を追い求め、ボヘミアンな生き方を望む彼等。
言ってしまえば、世間的にネガティブな要素を持った人物ばかり。
けれど、この作品を観ている間は私はそんなことを忘れてしまう。
とにかくパワフルで、病気だとか依存症だとかセクシャルマイノリティだとか、はたまた人種の違いだとかそんなものを吹き飛ばすエネルギーを彼らから感じるから。

 

現実を確かに生きていて、今のところ大きな病気をしたこともなく平凡に生きている私よりもずっと、彼らは一生懸命に生きている。
特に、セクシャルな部分に関しては同性愛だろうが異性愛だろうがなんの違いもなく、ただ人を愛するという自然な、そして大切なこととして描かれている。
作中、最も涙を誘うのはエンジェルのお葬式のシーンで、コリンズの愛溢れる優しくも悲しい歌声に客席も泣いている人がいっぱいいるけど、その時、私たちは「二人がゲイのカップルだから泣いている」わけではないし、ただただ愛する二人の別れに、エンジェルという尊い人の死に、涙を流しているだけ。
そこには押し付けがましい説教じみたメッセージはなにもない。
それは、ジョナサン・ラーソン自身が余計な色眼鏡無しに彼等を見ていたからで、そうでなければこんな作品を作ることができるわけない。

 

改めて、彼が最高の作品をこの世に残してくれたことに、感謝したい。

 

私は、博愛主義というわけではないし、好き嫌いはもちろんある。
それに、やっぱり狭い島国で、人生のほとんどを日本人と接して生きているので日本人以外の方に話しかけられたりした時はびっくりするし、どんなに綺麗事を言っても、違う国で暮らしている日本人以外の方と打ち解けるのはきっと時間がかかると思う。
でも、そういう感情があるからこそジョナサン・ラーソンの視点がどれだけ素晴らしいかわかる。
だから、時間がかかったとしても、自分に優しく接してくれた人にはちゃんとその優しさを返したい。

 

それはもちろん、人種という問題だけではなく。誰かと接するうえで大切にしていきたいこと。

 

描かれている時代としては、私が生まれた頃の話だから少し古いのかもしれない。
けど、一番大事なものはきっとこの先もずっと変わらない。
言葉では上手く説明できないものを、この作品は教えてくれた。

 

RENTという作品が大好き。本当に本当に、出会えてよかった。

 

 

ブログ開設


はてなブログを開設してみました。

元はぷらいべったーや他ブログで公開していたものなどもいくつかこちらに移動しました。移動していないのもあります。


演劇やミュージカル等、趣味のものについて感想を書き残していきます。


バンダイ版セラミュを初代のANZAさんから四代目のマリナさんまでずっと追いかけていたのがきっかけで、観劇が趣味になりました。
今でもセラミュは大事な思い出です。

DぼーいずさんのDステに出会ってから、ストレートのお芝居の良さにも気付きいろいろ観ています。
Dステで、同じ演目を何度も観るという文化に触れて、今までと違う演劇の楽しみ方を知りました。
鴉~ガランチード辺りまで観劇。


2.5次元から東宝、宝塚…気になる演目、気になる役者さんがいれば観たりします。

 

現在は安西慎太郎さん、大山真志さん、ソニンさんを中心に応援しています。

 最近ファンになったばかりなので、勉強中です。

 

一番好きなミュージカルは『RENT』。

出会った時のあの頭を殴られたような衝撃は、私はこれが観たかったんだという衝撃は、一生忘れない。

 

 

そんな感じで、マイペースに感想を残していきます。

 

 

 

 

 

『幽霊』ヘンリック・イプセン 紀伊國屋ホール

 

この作品は、朝海さんが演じるアルヴィング夫人は、私自身が女であることを浮き彫りにした。
だから、込められた皮肉や滑稽さを理解してもなお、彼女に同情する気持ちを抑えることはできない。
それが本能的なことなのか『幽霊』によるものなのかは、わからない。

 

舞台上にはたった5人、セットは暗いお屋敷一つ。
どこかおどろおどろしいような雰囲気のそこは未亡人であるアルヴィング夫人の屋敷で、夫人と女中のレギーネが暮らしている。
そこへ、パリへ留学し絵を描くことを仕事としていた息子オスヴァルが帰ってきた。
アルヴィング夫人が建設した孤児院の財務管理を任されたマンデルス牧師、レギーネ父親である指物師のエングストランも屋敷に集う。
明日は、今は亡きアルヴィング大尉の名誉を讃える記念式典、という日。

彼はそのような式典が行われるほどの人物──というのは嘘。
正しくは、虚像である。
本来のこの男は”放蕩者”であり、世間での評判は全てアルヴィング夫人が夫に代わって行ってきた事業や取り繕ってきた体面の結果。

だからこそ夫人は知っている、世間というものが何を見ているのか。
人には何が見えているのか、何が見えていないのか。

それぞれの事情がそれぞれの視点から垣間見え紐解かれ醜態を曝け出し、物語は悲劇的な結末へと向かっていく。

 

オスヴァルは、安西君が今まで演じてきた役柄の中でも見目が美しいというか、装いが彼自身に似合っている。
清楚で品のある服装はより魅力的に見えるので、こういった時代の、特に外国の作品は合っていると思う。
また、口にパイプを咥え煙を吐き出しながらどこか不敵な、読めない笑みを浮かべながら登場する。
葉巻を吸い、水のようにシャンパンを飲み、女中であるレギーネに対し欲をチラつかせる。

葉巻、パイプ、酒、女!

あまりこういう役柄を演じているところを見る機会がないので、謎の感動を覚えました。新鮮で良い。

彼は、アルヴィング夫人の一人息子。
これまで女として夫や世間と戦い、またオスヴァルの為に母としても戦ってきた夫人にとっての最愛の息子だ。
幼い頃から母親の都合で留学し、現在はパリで絵描きたちと交流しながら絵を描いていた。
一年のほとんどが雨か雪の薄暗い生まれ故郷と違い明るく華やかなパリは、オスヴァルに希望を与えた。
しかし、彼は病気を患って戻ってくる。
その”病気”がなんなのかはいまいち濁されたまま物語は進む。
今年はリヴァ・るを観劇していたこともありどうにもゴッホの姿を思い浮かべてしまった。精神的なものなのか?と。

そんなオスヴァルを、真面目なマンデルス牧師はあまりよく思わない。
そこで、アルヴィング夫人はマンデルスに夫について隠してきた一切を話す。
夫が、世間の評判とは全く違う”放蕩者”のままであったことを。
夫人はかつて、”ふしだら”が家の中で起きたことさえもすっかり打ち明ける。
夫と女中ヨハンナの情事の声を聴いたことを。温室に隠れた二人の声が今でも耳から離れないのだと。

その時、オスヴァルと女中レギーネの声が食堂から聞こえてくる。
「オスヴァル様!いけません!放してください!」

夫人は叫ぶ。
「幽霊ですわ!温室のあの二人が、また現れたんですわ!」

アルヴィング夫人は語る。
私たちに取りついている、父や母からの遺伝、古い思想、信仰…。
それらが、この作品における幽霊の姿だと。

物語は進み、オスヴァルがレギーネを妻にしたいと打ち明ける。彼女には生きる希望があるのだと。
しかし、夫人にはそれを喜べるはずがない。レギーネこそ、夫と女中ヨハンナが浮気してできた子どもであったから。
それを知ると、さっきまで戸惑いつつも可愛らしさのあったレギーネが手の平を返したように態度が変え、怒って屋敷を出て行った。

オスヴァルは絶望する。
その絶望の理由がなかなかハッキリしないまま交わされる台詞。
それらを緊張しながら一字一句聞き逃すまいとしている時には、序盤に少し退屈だなと感じていたことなんて忘れていた。

息を飲み見守る中、こちらの心さえ絶望に落とす展開へ。

とうとうオスヴァルは、自分が先天性の梅毒─父親からの遺伝─であり、すでに発作も経験していると告げる。
そして、レギーネにこだわっていた理由こそ、次に発作が起きた時にはモルヒネを使って自分を殺して欲しかったからだった。薄情な彼女なら、病気によって幼児のようになっていく自分を面倒見ることに嫌気がさして絶対にそうしてくれるだろうと。
事実、レギーネはオスヴァルの病気のこと、お互いの関係のことを知ってあっさりとオスヴァルを見捨てている。
近しいもので薄情なレギーネがいない今、母さんがそれをするのだと。
「助けてあげます」そう、答えるしかないアルヴィング夫人。

そして──ソファに座るオスヴァル。
太陽、太陽。見上げて、ただただ呟くばかりの息子に「──たまらない!」夫人はモルヒネを手にする。
一瞬思い留まり夫人が天を仰ぐと、暗く雨が降り続いていた空に太陽が現れ、全てを白日の下に曝け出した。


***


これまで戦い続けてきた彼女を、追い詰めるような仕打ち。
なんてことだろう。彼女は何を思ったのだろう。

観終えてすぐ、どうして、とやりきれない苦しさに苛まれました。

しかし、アルヴィング夫人があまりにも自己中心的な考え方の持ち主であることにも気付いてしまう。
父親の正体を隠すことも、息子をパリへやったのも息子のためと言いながら自分のためだ。
夫から息子を遠ざける=自分の理想通りにする。
それなのに、息子に親子関係を求める。母親として愛されたい、息子を愛しながら自分を愛している身勝手な女。

その夫人と親子であるオスヴァルも漏れなく自己中心的な男。
レギーネのことを薄情だなんて言うけれど、肉欲的関心から近付き勝手に生きる希望を見出しレギーネの意見さえ聞かずに妻にしたいなんて言い出す。
最後には自分を産んだ母親に、自分を愛している母親に、自分を殺せと言う。

なんて親子だ!!

と、改めて考えれば思えてしまう(むしろそれでいいのかもしれない)内容でした。

けれど、私にはそう見えなかった。物語自体の本質とは別のところで。
それは、朝海ひかるさんと安西君が演じたからなのだと思う。

先ほどあげた「自己中心的な考え方」はアルヴィング夫人とオスヴァルの共通点で、親子であることを実感させる。
それとは別に、朝海さんと安西君の共通点がある。
「下品さが一切ない」こと。

朝海さんを見たのはエリザベート以来で、戦う女性としても母としてもどこかシシィを思い出さずにはいられない。
実際、時代も同じ頃ということで彼女らの抱える問題は同じで、精神の自由を求める点も似ていると思う。
ルドルフ好きの私からすれば、シシィは信用ならないので(笑)朝海ひかるさんが母親役?大丈夫なの?なんて思っていましたが、杞憂でした。

朝海さん演じるアルヴィング夫人は、一度は逃げ出しながらも、ずっとずっと、誰にも本当のことを悟られることなく戦い続けてきた女性であり、それでいて息子のことも大切に思っている人でした。
凛とした佇まい、スッと伸びた背筋。小さくて綺麗な顔はキリッとした表情で、それでいて漂う「ことなかれ主義」の憂いと諦め。
とにかく始終美しかったです。

そして、安西君もまた、とても美しかった。
というか、前から絶対に宝塚出身女優さんとの相性が良いと思っていました。
(それに、るひまのブックレットやパンフとかで和装やら応援団やら着ているのを見るとこれは宝塚おとめだっけ?となることがある)
単に顔立ちの雰囲気からそう思っていた(音月桂さんに似ていると思うこともある)のだけど、生々しくも品や清潔感を失わないお芝居の感じが近いのかもしれません。
ノーブルな服装は似合うし、多少品が無さそうに見えることをしても下品にはならない。
でも、口許に手をやって「栓を抜いてやるかな…」と言ったところなんかは妙な色気があって良かった。

ともすれば、オスヴァルは母親に親子以上の感情を抱いているのではないかと疑いながら観てしまいました。
「僕のためならどんなことでもしてみせるって?僕が頼めば?」
切羽詰まりながらのこの台詞を聞いて、放蕩者の息子で、レギーネにできて母親にできないこと、という連想から肉欲的な方向に考えて邪推してしまった私を許してくださいね。
しかし、近親相姦的な関係に見えてさえ不快にならない程の二人の美しさ。生々しくないいやらしさというか。
手を取る、抱きしめる、前髪をはらう、見つめ合う。ひとつひとつが画になりました。

しかし、見目麗しい親子を待っているのは悲劇でした。
そして、その悲劇が彼らの本性を暴いていく。

まず、孤児院が焼けてしまったこと。
そうしてより一層浮き彫りになった、エングストランやマンデルス牧師の人間性
もう、マンデルス牧師に関しては苦笑せざるを得ないというか、愚直というか、保守的な人なのでしょう。
エングストランには、もう最初から最後まで不快さしかありません。演じている吉原さんは、グランドホテルでも女性に対し酷い役柄だったので本気で怖かった。なので、アフタートークで見せた明るく気さくな雰囲気にはホッとしました(笑)

そして、オスヴァルが実の妹であるレギーネに恋をしていたこと。
オスヴァルが感じていた通りレギーネは薄情だったので、控えめで奥様の言うことには逆らわない女中から豹変してさっさと親子に見切りをつけて出て行きました。
葉巻、酒、女!に続いて近親相姦まで網羅するオスヴァル凄いです。
安西君は苦悩する青年役というジャンルだけでどれだけ枝分かれして演じていくのでしょうか(笑)

極めつけは、オスヴァルを蝕む病。
夫人が恐れていたことは、最悪の形で姿を現してしまった。

あのような男が父親だと思わせたくない、よくない家庭の空気の中に息子を置きたくない。
息子から父親の幽霊を遠ざけようとして戦ってきたというのに。
とうのオスヴァルには、亡き父親の幽霊が遺伝性の病気という形で取り憑いていたのだから。

だからこそ彼は、レギーネを求めた。生きる希望、つまり絶望しないために。
しかし、夫人はオスヴァルからレギーネという「救い」を取り上げてしまった。
エリザベートで例えれば、ルドルフにとってのトートがオスヴァルにとってのレギーネ
先天性の梅毒であることや発作の症状などからこれ以上の悲劇が起きないように、オスヴァルはレギーネに救い=破滅を求めた。けれど、アルヴィング夫人がそれを阻止してしまった。
結局はそれがアルヴィング夫人にとって最大の悲劇となり、守り抜いてきた全てが崩壊へと向かう。

「産んでくれと頼んだ覚えはありませんよ」
「あなたがくれたのはどんな命です?こんなものは欲しくない!」

この辺りの台詞は、思い出しても辛い。
私は独身で子どももいないので本当の意味でアルヴィング夫人の気持ちを理解することはできないかもしれないけれど、実の息子に、大切な一人息子に“生きる希望”を見出してきた彼女が、どんな思いだったか。

私は、アルヴィング夫人に対し同情しすぎなのかもしれない。
岩波文庫から出ている本も読みましたし、おそらくはもっともっとドロドロとした生々しさが渦巻いた作品として取れるのだと思う。直接的ではないけれど、裏にあるのはそれというか。
“放蕩者”と表すのが古い演劇ならではで私はとても好きだけれど、鵜山さんの言葉を借りて”スッキリ”した物言いをすればアルヴィングという男は浮気性のヤリチンの性病持ちで、その結果がレギーネという私生児で、レギーネに対し父親はなんだかいやらしい感じだし、彼女にオスヴァルが性的関心を抱けば異母兄妹であるし、本人は虫喰い─遺伝性の梅毒に罹っている。

性が乱れている!!

だから本当はもっと、肉欲の匂いや性のどうしようもなさを強く感じてもよかったのかもしれない。
けれど、私には女性として精一杯戦ってきた彼女を抱き締めたいとさえ思う。女として。
こういう見え方も有りなのではないだろうか。
朝海さんが演じた意味がそこにある。役者本人の色が透けて見えてくるのも演劇の楽しみ方だと思う。
観客として、女として、娘として、人間として。
この作品はあまりにも考えることが多すぎるし、立場によって見えてくるものが違いすぎる。

そうして考えていく中で気付くのは、私もまさに幽霊に囚われているうちの一人であるということ。
そして自分もまた、誰かにとっては幽霊であること。

誰しも一人で生まれ一人で生きることはできず、父親と母親がいて、血を受け継ぎ生まれてくる。
人と関わり、影響を受けながら育っていく。
その”影響”そのものが幽霊。

この作品では、幽霊はあまりよくない方向に作用しているけれど、私は“愛情”だって幽霊だと思うんです。
血であったり、愛情であったり、思想であったり、性と世間とのしがらみであったり。
憎いものであったり、時に愛おしいものであったり。
人が生きる上で常にまとわりつき、切り離せないもの。ずっとずっと昔から。人類の営みそのもの。
それが幽霊の正体なのだと。

時代背景や、女性という性の歴史、ものの見え方、色々なことを考えることのできる素敵な作品でした。

嘘で塗り固め武装し戦い抜いてきた彼女が全てをかけて守ろうとしたものが、自分の手によって消え去ろうとしている。今、まさに選択を迫られている。
太陽が顔を出し陰鬱としていた屋敷に、光が射す。

「それにみんな、私たち、光をひどく怖がっていますものね」

白日のもと真実を全て曝け出させるその容赦ない残酷さが、彼女自身の愚かさや滑稽さごとを明るみに出してしまう。
「太陽…太陽…」
オスヴァルが求めた生きる希望、抑圧からの解放の象徴である太陽。しかし、それはアルヴィング夫人に何の救いももたらさない。彼女だけが救われることを許さない。

あの、空を見上げた彼女の姿を、全てが崩れ去った瞬間を、私は忘れられそうにない。

 

舞台『喜びの歌』DDD青山クロスシアター

 

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」


キラキラとした目で無邪気に問いかける彼を怖いと感じるのは、二度目の観劇から。


『喜びの歌』

背景は近未来。政府によって様々なことが制限され、個であることを禁じられた人々はお互いを監視している。しかし、だからこそ戦争もなく平和である。
ジンダイジの経営するウォーターバーの常連イケダは、海の底に憧れを抱きバーチャル素潜りを繰り返していた。
そこへ偶然、ジンダイジの過激派時代の相棒であるヨダが現れる。
二人がいた組織のリーダーであったソノベは10年前に自害しており、彼等は負けを悟り組織をやめ、今の暮らしに至っている。
実はイケダは母方の旧姓を名乗っており、本名はソノベであり彼等のリーダーの息子であった。
イケダは父親が自害したことへの恨みを晴らすために二人を殺そうとする。

書き起こせば単純なストーリーなのに、感想がすんなりと出てこない。
たった三人しかいないこの舞台は、観た人自身の価値観や感受性、知識と直結していて感想はまさに十人十色だと思う。
DVDになるそうなので、半年後、一年後、五年後と時が経ち見返せばまた違う答えが出てくるのでしょう。
それは、観る人に寄り添いはしなくても突き放すことも決してしない作品だから。

イケダが何を思い、何をしようとしていたのか知ってから観ると、本当に物語が違って見える。
ジンダイジとバーで過ごしているひとつひとつの瞬間が、ジンダイジを試しているように見えて仕方ない。

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」

笑顔でこの質問をしたイケダに、背筋がぞくっとしました。

イケダのひとつひとつの言葉が尋問に感じるし、明るい表情さえも裏に意味があるように見えてくる。初見でも面白いけれど、二回以上観れたらさらに面白い。
私がしんた君のファンなので、とにかくイケダに注目しまくってしまったのもありますが。
イケダはちょっとお馬鹿そうで無邪気な笑顔が可愛らしい好青年。しんた君によく似合う役です。
舌足らず気味で時々裏返ってしまう声は普段の本人に近いかなと。なので、途中までは可愛らしい役だな~なんて思って観ていました。

この舞台では音楽や音が効果的に使われていて、セルロイドレストランでもスズカツさんが話されていたけれど編集された舞台。
映画のカットが入るように切り取られ切り替わるのですが、それを音や照明を使って表現していました。(ノイズが入ったり、机を大きく叩いたり)

過去のシーンでジンダイジとヨダが話している場面でも、舞台上にイケダはいる。
ノイズが入り、スポットがイケダに切り替わる。

「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」
「人間は、その人の思考の産物にすぎない。 人は、思っている通りになる」

ガンジーの言葉ですが、その独白が入ったことでアレ?となりました。イケダなにかありそうだなと。
彼は海底に憧れを抱き、いつか潜りたいと言ってバーチャル素潜りを繰り返している不思議な青年。
序盤では実際にしんたくんは水槽に顔を突っ込み、そこでのやりとりは可愛らしい。

しかし、物語も終わりに近づいたところでイケダは一人、水槽を前に独白する。

「猫の足 鉄の爪 神経外科医たちが「もっと」と金切り声をあげる……」

もっと続くのですが、これはキングクリムゾンの21世紀のスキッツォイド・マンの和訳とのこと。
これを気が狂ったように呟き、叫んでいる。8/26ソワレでは水槽にポタポタと涙が落ちるのが見えた。
そして、顔を水槽に突っ込む。
この時点で、もうイケダはヤバい奴とわかりました。あ、これしんた君がよく演じている好青年と見せかけてやべーやつだ、と。

ヤバい奴とわかりつつ、じゃあこいつは何がしたいんだ?とわからないので初日はドキドキして体が緊張で強張っていました。

「仕事何してるの?」
「害虫駆除です」

「昔は良かった~っていうジジババどもが。その良かった昔を作ったのはお前らじゃないうえに、今の世の中をつくったのはお前らだろクソどもが、って思っちゃいます」

声も口調も明るく、なんてことない仕事の愚痴。けれど、ラストを知ったうえで観るとこの言葉がジンダイジやヨダに掛かっていることがわかる。
イケダは、あっさりと正体を明かす。彼のヨダに対しての表情が怖い。

デイトレーダーにおなりとは、拝金主義まっしぐらですね」
「拝金主義とはなんだよ~」
「親父の言ってた原始共産主義とは真逆ですよね?ある意味凄いな」
「あ、褒めてたんだ」
「ばーか」

この、「ばーか」を彼らの前では好青年の彼が急に言い出すんですよ。ゾクッとしました。さっきまで敬語で喋っていたのに。
しかし、びっくりしたのがこの「ばーか」のシーンで一部笑いが起きていたこと。こういう奇妙さが起こるのが、この雰囲気の舞台特有の現象だなと思いますね。人それぞれ感じ方が違う。
イケダは、父親キリスト教に強い興味を示していたことや父の日記の内容を話す。
この時にヨダはそれこそ「ばーか」と言われて仕方ない口ぶりだったけど、ジンダイジはソノベやイケダの言いたいことを理解していたように思う。
そして、会話の末イケダはヨダに水をぶっかけて、また21世紀のスキッツォイド・マンを唱え彼らに本心を明かす。

父が死に、貧乏のどん底まで落ち、母は頭がおかしくなり、地獄を見た。

この時のジンダイジとヨダの違いもまたわかりやすいというか。
ジンダイジはただならぬイケダの様子に焦り、ソノベの死に関すること(息子のその後も含め)罪の意識があるのがわかる。自分を責めている。
けれどヨダは自分に水を掛けたイケダに怒りを感じているようで、過去の出来事について自分を責める様子はあまりない。
イケダは、豹変したかと思えばさっきまでと同じように明るく好青年な雰囲気に戻り酷く不気味。
就職が決まったという彼にお祝いを渡すと言った二人。

「でも、今は準備が」
「いいんです、こっちで用意してきましたから!」

イケダが鞄から取り出したのは拳銃。さすがにヨダも焦る。
ヨダに銃を向けると21世紀のスキッツォイド・マンが流れる。それも爆音で。暗いステージで、淡く冷たい光に照らされるイケダの美しいこと。

ジンダイジに銃を向け近付くと、ジンダイジはイケダの腕を掴み自分の額に当てさせる。
しかし、しばらくしてもイケダは引き金を引かない。
ジンダイジはイケダの腕を引っ張り体ごと抱きしめてしまう。暴れ、叫ぶイケダ。その声さえも爆音の音楽で微かにしか聞こえない。
全てが最高潮になったところで音が途切れ、イケダも大人しくなる。
ジンダイジは、イケダを抱きしめたまま呟く。

「俺は君が好きなんだ。だからこんなことはしてほしくない」
「…嫌いだよ、あんたなんか。なんで死ななかったんだ、全てに絶望して幻滅したんだろ」
「生きることが、好きだからだ」

イケダが、ジンダイジを見つめて、一度逸らしてまた見つめていたのが印象的で。
ただこれは千秋楽しかよく見てなかったので他の日がどうだったかよく覚えていないのですが。
全てに絶望して幻滅して いたのは、イケダも同じ。
だからこそ、ジンダイジになぜ生きるのかをずっと問いたかったのかもしれない。
イケダが去り、ラストシーンは冒頭と同じくジンダイジが一人踊る。
違うのは、踊った後、イケダが去った方を見て、それから水槽に顔を突っ込み、そしてやはり死にきれずに顔を上げたこと。

ジンダイジは何かと過去のことを思い出していたし、墓参りにも行けず、あの頃に囚われたまま。
現実を見ているフリがうまいけれど、実際はずっと目を逸らし続けている。
彼は「みんなお前みたいだったらいいのにな」とヨダに言ったけど、あんなふうに切り替えて生きていけたら。
「好き」は常に楽しいものじゃない。
生きることが好きという言葉に嘘はないと思うけど、それでも死にたくなる時があって、死にきれないまま生きる。
いっそ狂ってしまえれば楽なのに。こんな世の中で生き、狂う一歩手前の彼は、そして私たちもまた、21世紀のスキッツォイド・マンなのだろうか。


なんていろいろ言ってみるけど、主義とか思想とか、義務とか責任とかそういうの抜きにして「好き」という感情で動いた二人というところに私は注目したい。
イケダは、父親の死にまつわる自分の絶望的な境遇への恨み辛みを晴らさなくては、害虫は駆除しなければと考えていた。
幼い10歳にして父は死に、母は狂い、貧乏のどん底で辛かったであろう彼の10年間の行動原理はそこにあった。
ジンダイジも、責任をとろうと思うのであればイケダに殺されるべきだし、自分で死にきれないのであれば他者に殺されていいと考えたはずだ。
原子レベルでは死なないだとか小難しく考える彼のことだから、一瞬のうちにそれくらいの頭の整理はできたに違いない。

だからこそジンダイジは銃を額に当てさせた。

けれど、イケダはジンダイジをすぐに撃つことはできなかったし、ジンダイジもまたイケダを抱きしめた。

「好き」だからだ。

イケダはジンダイジを嫌いだと言ったけれど、嫌いでなければならなかった。ずっとずっと、そう考えていたのだろう。父のため、恨みのため。
けれど、人の好き嫌いは理屈に左右されるものではない。ソノベもジンダイジを可愛がっていたようだし、頭も良い。好ましく思うのは必然だったように思える。
確証が持てなかった「好き」は、生きることにもジンダイジへもどちらにも掛かっていたんじゃないかと。そうであってほしい。
これは、私のイケダに対する希望でもある。

メッセージ性とか無視してイケダに関してだけ直接的な表現すれば、好きになっちゃいけない相手に好きって言われた、っていうことかなって。
「好き」って凄い。
例えば「性格いいですね」って言われたら、褒められてるのに「そんなことないですよ」って否定できてしまう。
でも、「あなたの性格好きです」って言われたら、どうしようもない。それは言った相手の価値観の問題であって、言われた方は手も足も口も出せない。

「好き」って、全部受け入れるような言葉。

イケダの恨み辛みは、ジンダイジによって受容されて流されて、10年間の行動原理が一度破壊されて、好きっていう形で構築されなおされてしまった。
イケダにとっては、価値観ひっくり返される出来事。

だからこそ「好き」という美しいような言葉ではあるものの、素敵だとかそれこそ美しいラストだなとは言い難いのかなって。
ある意味狡い行動だよね、ジンダイジさん。
けれど、ある意味救いでもあり、イケダは穴ぐらから出ていくことができた。
できないのは、ジンダイジただ一人。イケダが出て行った方を見つめ、そして今日も死にきれない。
死にきれないことで生への執着を確認しているのか、生きていることを実感しているのか、彼もまた潜ることで何か変わるかもしれないと思ったという変化なのか…窒息マニアなのか(笑)

視点を変えればあらゆることを考え、あらゆる意味にとれるようになっているこの舞台。
良いようにも悪いようにも取れるけど、このラストについて、21世紀への希望も込めて前向きに捉えていたい。

いつか、もしかしたらもうずっと先かもしれないけど、二人が出会うことができたら何か変わるかもしれないって。
イケダがジンダイジを穴ぐらから引っ張り出して、海の声を聴きに行ってもいいんじゃないかって。
小さな水槽なんかじゃなく、砂浜で、エメラルドブルーの大きな海を前に思わず歌を口ずさむ二人。

自由は私の中にあり、誰もそれを奪うことができないのであれば、そこそこ幸せな未来を想像することだって私の自由なはずだ。

タイトルの『喜びの歌』は、時計じかけのオレンジを観てからはちょっと不穏に感じる。
21世紀のスキッツォイド・マンを唱える時のイケダはやばい時だし、彼にとっての喜びの歌なのかなとか。
彼自身、戒めとしての曲でもあるのかなとも思うし。忘れてはいけない過去への。
曲の使われ方がかっこよすぎて、クライマックスのあのボルテージが最高潮まで上がるあの瞬間は忘れられそうにない。
ジンダイジのような大人はたくさんいると思うし、みんないっぱいいっぱい。みんなスキッツォイドマンの一歩手前。

最後に劇場について触れておきたい。
青山劇場の横のとおりを奥に入ると、地下への入り口がある。一瞬わかりにくいけれど立地のいい劇場。
たった、180席くらいの小さな劇場だ。
中はパイプ椅子ではなく、図書館とかに置いてありそうな椅子。不思議だ。
椅子の並びが千鳥ではないこと、トイレが少ないのが難点だけど、私は秘密基地っぽくて好きだ。

好きなんだ。