Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

舞台『喜びの歌』DDD青山クロスシアター

 

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」


キラキラとした目で無邪気に問いかける彼を怖いと感じるのは、二度目の観劇から。


『喜びの歌』

背景は近未来。政府によって様々なことが制限され、個であることを禁じられた人々はお互いを監視している。しかし、だからこそ戦争もなく平和である。
ジンダイジの経営するウォーターバーの常連イケダは、海の底に憧れを抱きバーチャル素潜りを繰り返していた。
そこへ偶然、ジンダイジの過激派時代の相棒であるヨダが現れる。
二人がいた組織のリーダーであったソノベは10年前に自害しており、彼等は負けを悟り組織をやめ、今の暮らしに至っている。
実はイケダは母方の旧姓を名乗っており、本名はソノベであり彼等のリーダーの息子であった。
イケダは父親が自害したことへの恨みを晴らすために二人を殺そうとする。

書き起こせば単純なストーリーなのに、感想がすんなりと出てこない。
たった三人しかいないこの舞台は、観た人自身の価値観や感受性、知識と直結していて感想はまさに十人十色だと思う。
DVDになるそうなので、半年後、一年後、五年後と時が経ち見返せばまた違う答えが出てくるのでしょう。
それは、観る人に寄り添いはしなくても突き放すことも決してしない作品だから。

イケダが何を思い、何をしようとしていたのか知ってから観ると、本当に物語が違って見える。
ジンダイジとバーで過ごしているひとつひとつの瞬間が、ジンダイジを試しているように見えて仕方ない。

「じゃあ、なんで死んじゃわなかったんです?」

笑顔でこの質問をしたイケダに、背筋がぞくっとしました。

イケダのひとつひとつの言葉が尋問に感じるし、明るい表情さえも裏に意味があるように見えてくる。初見でも面白いけれど、二回以上観れたらさらに面白い。
私がしんた君のファンなので、とにかくイケダに注目しまくってしまったのもありますが。
イケダはちょっとお馬鹿そうで無邪気な笑顔が可愛らしい好青年。しんた君によく似合う役です。
舌足らず気味で時々裏返ってしまう声は普段の本人に近いかなと。なので、途中までは可愛らしい役だな~なんて思って観ていました。

この舞台では音楽や音が効果的に使われていて、セルロイドレストランでもスズカツさんが話されていたけれど編集された舞台。
映画のカットが入るように切り取られ切り替わるのですが、それを音や照明を使って表現していました。(ノイズが入ったり、机を大きく叩いたり)

過去のシーンでジンダイジとヨダが話している場面でも、舞台上にイケダはいる。
ノイズが入り、スポットがイケダに切り替わる。

「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」
「人間は、その人の思考の産物にすぎない。 人は、思っている通りになる」

ガンジーの言葉ですが、その独白が入ったことでアレ?となりました。イケダなにかありそうだなと。
彼は海底に憧れを抱き、いつか潜りたいと言ってバーチャル素潜りを繰り返している不思議な青年。
序盤では実際にしんたくんは水槽に顔を突っ込み、そこでのやりとりは可愛らしい。

しかし、物語も終わりに近づいたところでイケダは一人、水槽を前に独白する。

「猫の足 鉄の爪 神経外科医たちが「もっと」と金切り声をあげる……」

もっと続くのですが、これはキングクリムゾンの21世紀のスキッツォイド・マンの和訳とのこと。
これを気が狂ったように呟き、叫んでいる。8/26ソワレでは水槽にポタポタと涙が落ちるのが見えた。
そして、顔を水槽に突っ込む。
この時点で、もうイケダはヤバい奴とわかりました。あ、これしんた君がよく演じている好青年と見せかけてやべーやつだ、と。

ヤバい奴とわかりつつ、じゃあこいつは何がしたいんだ?とわからないので初日はドキドキして体が緊張で強張っていました。

「仕事何してるの?」
「害虫駆除です」

「昔は良かった~っていうジジババどもが。その良かった昔を作ったのはお前らじゃないうえに、今の世の中をつくったのはお前らだろクソどもが、って思っちゃいます」

声も口調も明るく、なんてことない仕事の愚痴。けれど、ラストを知ったうえで観るとこの言葉がジンダイジやヨダに掛かっていることがわかる。
イケダは、あっさりと正体を明かす。彼のヨダに対しての表情が怖い。

デイトレーダーにおなりとは、拝金主義まっしぐらですね」
「拝金主義とはなんだよ~」
「親父の言ってた原始共産主義とは真逆ですよね?ある意味凄いな」
「あ、褒めてたんだ」
「ばーか」

この、「ばーか」を彼らの前では好青年の彼が急に言い出すんですよ。ゾクッとしました。さっきまで敬語で喋っていたのに。
しかし、びっくりしたのがこの「ばーか」のシーンで一部笑いが起きていたこと。こういう奇妙さが起こるのが、この雰囲気の舞台特有の現象だなと思いますね。人それぞれ感じ方が違う。
イケダは、父親キリスト教に強い興味を示していたことや父の日記の内容を話す。
この時にヨダはそれこそ「ばーか」と言われて仕方ない口ぶりだったけど、ジンダイジはソノベやイケダの言いたいことを理解していたように思う。
そして、会話の末イケダはヨダに水をぶっかけて、また21世紀のスキッツォイド・マンを唱え彼らに本心を明かす。

父が死に、貧乏のどん底まで落ち、母は頭がおかしくなり、地獄を見た。

この時のジンダイジとヨダの違いもまたわかりやすいというか。
ジンダイジはただならぬイケダの様子に焦り、ソノベの死に関すること(息子のその後も含め)罪の意識があるのがわかる。自分を責めている。
けれどヨダは自分に水を掛けたイケダに怒りを感じているようで、過去の出来事について自分を責める様子はあまりない。
イケダは、豹変したかと思えばさっきまでと同じように明るく好青年な雰囲気に戻り酷く不気味。
就職が決まったという彼にお祝いを渡すと言った二人。

「でも、今は準備が」
「いいんです、こっちで用意してきましたから!」

イケダが鞄から取り出したのは拳銃。さすがにヨダも焦る。
ヨダに銃を向けると21世紀のスキッツォイド・マンが流れる。それも爆音で。暗いステージで、淡く冷たい光に照らされるイケダの美しいこと。

ジンダイジに銃を向け近付くと、ジンダイジはイケダの腕を掴み自分の額に当てさせる。
しかし、しばらくしてもイケダは引き金を引かない。
ジンダイジはイケダの腕を引っ張り体ごと抱きしめてしまう。暴れ、叫ぶイケダ。その声さえも爆音の音楽で微かにしか聞こえない。
全てが最高潮になったところで音が途切れ、イケダも大人しくなる。
ジンダイジは、イケダを抱きしめたまま呟く。

「俺は君が好きなんだ。だからこんなことはしてほしくない」
「…嫌いだよ、あんたなんか。なんで死ななかったんだ、全てに絶望して幻滅したんだろ」
「生きることが、好きだからだ」

イケダが、ジンダイジを見つめて、一度逸らしてまた見つめていたのが印象的で。
ただこれは千秋楽しかよく見てなかったので他の日がどうだったかよく覚えていないのですが。
全てに絶望して幻滅して いたのは、イケダも同じ。
だからこそ、ジンダイジになぜ生きるのかをずっと問いたかったのかもしれない。
イケダが去り、ラストシーンは冒頭と同じくジンダイジが一人踊る。
違うのは、踊った後、イケダが去った方を見て、それから水槽に顔を突っ込み、そしてやはり死にきれずに顔を上げたこと。

ジンダイジは何かと過去のことを思い出していたし、墓参りにも行けず、あの頃に囚われたまま。
現実を見ているフリがうまいけれど、実際はずっと目を逸らし続けている。
彼は「みんなお前みたいだったらいいのにな」とヨダに言ったけど、あんなふうに切り替えて生きていけたら。
「好き」は常に楽しいものじゃない。
生きることが好きという言葉に嘘はないと思うけど、それでも死にたくなる時があって、死にきれないまま生きる。
いっそ狂ってしまえれば楽なのに。こんな世の中で生き、狂う一歩手前の彼は、そして私たちもまた、21世紀のスキッツォイド・マンなのだろうか。


なんていろいろ言ってみるけど、主義とか思想とか、義務とか責任とかそういうの抜きにして「好き」という感情で動いた二人というところに私は注目したい。
イケダは、父親の死にまつわる自分の絶望的な境遇への恨み辛みを晴らさなくては、害虫は駆除しなければと考えていた。
幼い10歳にして父は死に、母は狂い、貧乏のどん底で辛かったであろう彼の10年間の行動原理はそこにあった。
ジンダイジも、責任をとろうと思うのであればイケダに殺されるべきだし、自分で死にきれないのであれば他者に殺されていいと考えたはずだ。
原子レベルでは死なないだとか小難しく考える彼のことだから、一瞬のうちにそれくらいの頭の整理はできたに違いない。

だからこそジンダイジは銃を額に当てさせた。

けれど、イケダはジンダイジをすぐに撃つことはできなかったし、ジンダイジもまたイケダを抱きしめた。

「好き」だからだ。

イケダはジンダイジを嫌いだと言ったけれど、嫌いでなければならなかった。ずっとずっと、そう考えていたのだろう。父のため、恨みのため。
けれど、人の好き嫌いは理屈に左右されるものではない。ソノベもジンダイジを可愛がっていたようだし、頭も良い。好ましく思うのは必然だったように思える。
確証が持てなかった「好き」は、生きることにもジンダイジへもどちらにも掛かっていたんじゃないかと。そうであってほしい。
これは、私のイケダに対する希望でもある。

メッセージ性とか無視してイケダに関してだけ直接的な表現すれば、好きになっちゃいけない相手に好きって言われた、っていうことかなって。
「好き」って凄い。
例えば「性格いいですね」って言われたら、褒められてるのに「そんなことないですよ」って否定できてしまう。
でも、「あなたの性格好きです」って言われたら、どうしようもない。それは言った相手の価値観の問題であって、言われた方は手も足も口も出せない。

「好き」って、全部受け入れるような言葉。

イケダの恨み辛みは、ジンダイジによって受容されて流されて、10年間の行動原理が一度破壊されて、好きっていう形で構築されなおされてしまった。
イケダにとっては、価値観ひっくり返される出来事。

だからこそ「好き」という美しいような言葉ではあるものの、素敵だとかそれこそ美しいラストだなとは言い難いのかなって。
ある意味狡い行動だよね、ジンダイジさん。
けれど、ある意味救いでもあり、イケダは穴ぐらから出ていくことができた。
できないのは、ジンダイジただ一人。イケダが出て行った方を見つめ、そして今日も死にきれない。
死にきれないことで生への執着を確認しているのか、生きていることを実感しているのか、彼もまた潜ることで何か変わるかもしれないと思ったという変化なのか…窒息マニアなのか(笑)

視点を変えればあらゆることを考え、あらゆる意味にとれるようになっているこの舞台。
良いようにも悪いようにも取れるけど、このラストについて、21世紀への希望も込めて前向きに捉えていたい。

いつか、もしかしたらもうずっと先かもしれないけど、二人が出会うことができたら何か変わるかもしれないって。
イケダがジンダイジを穴ぐらから引っ張り出して、海の声を聴きに行ってもいいんじゃないかって。
小さな水槽なんかじゃなく、砂浜で、エメラルドブルーの大きな海を前に思わず歌を口ずさむ二人。

自由は私の中にあり、誰もそれを奪うことができないのであれば、そこそこ幸せな未来を想像することだって私の自由なはずだ。

タイトルの『喜びの歌』は、時計じかけのオレンジを観てからはちょっと不穏に感じる。
21世紀のスキッツォイド・マンを唱える時のイケダはやばい時だし、彼にとっての喜びの歌なのかなとか。
彼自身、戒めとしての曲でもあるのかなとも思うし。忘れてはいけない過去への。
曲の使われ方がかっこよすぎて、クライマックスのあのボルテージが最高潮まで上がるあの瞬間は忘れられそうにない。
ジンダイジのような大人はたくさんいると思うし、みんないっぱいいっぱい。みんなスキッツォイドマンの一歩手前。

最後に劇場について触れておきたい。
青山劇場の横のとおりを奥に入ると、地下への入り口がある。一瞬わかりにくいけれど立地のいい劇場。
たった、180席くらいの小さな劇場だ。
中はパイプ椅子ではなく、図書館とかに置いてありそうな椅子。不思議だ。
椅子の並びが千鳥ではないこと、トイレが少ないのが難点だけど、私は秘密基地っぽくて好きだ。

好きなんだ。