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Open Sesame!

演劇とミュージカルと美味しいお酒とご飯。

『幽霊』ヘンリック・イプセン 紀伊國屋ホール

観劇

 

この作品は、朝海さんが演じるアルヴィング夫人は、私自身が女であることを浮き彫りにした。
だから、込められた皮肉や滑稽さを理解してもなお、彼女に同情する気持ちを抑えることはできない。
それが本能的なことなのか『幽霊』によるものなのかは、わからない。

 

舞台上にはたった5人、セットは暗いお屋敷一つ。
どこかおどろおどろしいような雰囲気のそこは未亡人であるアルヴィング夫人の屋敷で、夫人と女中のレギーネが暮らしている。
そこへ、パリへ留学し絵を描くことを仕事としていた息子オスヴァルが帰ってきた。
アルヴィング夫人が建設した孤児院の財務管理を任されたマンデルス牧師、レギーネ父親である指物師のエングストランも屋敷に集う。
明日は、今は亡きアルヴィング大尉の名誉を讃える記念式典、という日。

彼はそのような式典が行われるほどの人物──というのは嘘。
正しくは、虚像である。
本来のこの男は”放蕩者”であり、世間での評判は全てアルヴィング夫人が夫に代わって行ってきた事業や取り繕ってきた体面の結果。

だからこそ夫人は知っている、世間というものが何を見ているのか。
人には何が見えているのか、何が見えていないのか。

それぞれの事情がそれぞれの視点から垣間見え紐解かれ醜態を曝け出し、物語は悲劇的な結末へと向かっていく。

 

オスヴァルは、安西君が今まで演じてきた役柄の中でも見目が美しいというか、装いが彼自身に似合っている。
清楚で品のある服装はより魅力的に見えるので、こういった時代の、特に外国の作品は合っていると思う。
また、口にパイプを咥え煙を吐き出しながらどこか不敵な、読めない笑みを浮かべながら登場する。
葉巻を吸い、水のようにシャンパンを飲み、女中であるレギーネに対し欲をチラつかせる。

葉巻、パイプ、酒、女!

あまりこういう役柄を演じているところを見る機会がないので、謎の感動を覚えました。新鮮で良い。

彼は、アルヴィング夫人の一人息子。
これまで女として夫や世間と戦い、またオスヴァルの為に母としても戦ってきた夫人にとっての最愛の息子だ。
幼い頃から母親の都合で留学し、現在はパリで絵描きたちと交流しながら絵を描いていた。
一年のほとんどが雨か雪の薄暗い生まれ故郷と違い明るく華やかなパリは、オスヴァルに希望を与えた。
しかし、彼は病気を患って戻ってくる。
その”病気”がなんなのかはいまいち濁されたまま物語は進む。
今年はリヴァ・るを観劇していたこともありどうにもゴッホの姿を思い浮かべてしまった。精神的なものなのか?と。

そんなオスヴァルを、真面目なマンデルス牧師はあまりよく思わない。
そこで、アルヴィング夫人はマンデルスに夫について隠してきた一切を話す。
夫が、世間の評判とは全く違う”放蕩者”のままであったことを。
夫人はかつて、”ふしだら”が家の中で起きたことさえもすっかり打ち明ける。
夫と女中ヨハンナの情事の声を聴いたことを。温室に隠れた二人の声が今でも耳から離れないのだと。

その時、オスヴァルと女中レギーネの声が食堂から聞こえてくる。
「オスヴァル様!いけません!放してください!」

夫人は叫ぶ。
「幽霊ですわ!温室のあの二人が、また現れたんですわ!」

アルヴィング夫人は語る。
私たちに取りついている、父や母からの遺伝、古い思想、信仰…。
それらが、この作品における幽霊の姿だと。

物語は進み、オスヴァルがレギーネを妻にしたいと打ち明ける。彼女には生きる希望があるのだと。
しかし、夫人にはそれを喜べるはずがない。レギーネこそ、夫と女中ヨハンナが浮気してできた子どもであったから。
それを知ると、さっきまで戸惑いつつも可愛らしさのあったレギーネが手の平を返したように態度が変え、怒って屋敷を出て行った。

オスヴァルは絶望する。
その絶望の理由がなかなかハッキリしないまま交わされる台詞。
それらを緊張しながら一字一句聞き逃すまいとしている時には、序盤に少し退屈だなと感じていたことなんて忘れていた。

息を飲み見守る中、こちらの心さえ絶望に落とす展開へ。

とうとうオスヴァルは、自分が先天性の梅毒─父親からの遺伝─であり、すでに発作も経験していると告げる。
そして、レギーネにこだわっていた理由こそ、次に発作が起きた時にはモルヒネを使って自分を殺して欲しかったからだった。薄情な彼女なら、病気によって幼児のようになっていく自分を面倒見ることに嫌気がさして絶対にそうしてくれるだろうと。
事実、レギーネはオスヴァルの病気のこと、お互いの関係のことを知ってあっさりとオスヴァルを見捨てている。
近しいもので薄情なレギーネがいない今、母さんがそれをするのだと。
「助けてあげます」そう、答えるしかないアルヴィング夫人。

そして──ソファに座るオスヴァル。
太陽、太陽。見上げて、ただただ呟くばかりの息子に「──たまらない!」夫人はモルヒネを手にする。
一瞬思い留まり夫人が天を仰ぐと、暗く雨が降り続いていた空に太陽が現れ、全てを白日の下に曝け出した。


***


これまで戦い続けてきた彼女を、追い詰めるような仕打ち。
なんてことだろう。彼女は何を思ったのだろう。

観終えてすぐ、どうして、とやりきれない苦しさに苛まれました。

しかし、アルヴィング夫人があまりにも自己中心的な考え方の持ち主であることにも気付いてしまう。
父親の正体を隠すことも、息子をパリへやったのも息子のためと言いながら自分のためだ。
夫から息子を遠ざける=自分の理想通りにする。
それなのに、息子に親子関係を求める。母親として愛されたい、息子を愛しながら自分を愛している身勝手な女。

その夫人と親子であるオスヴァルも漏れなく自己中心的な男。
レギーネのことを薄情だなんて言うけれど、肉欲的関心から近付き勝手に生きる希望を見出しレギーネの意見さえ聞かずに妻にしたいなんて言い出す。
最後には自分を産んだ母親に、自分を愛している母親に、自分を殺せと言う。

なんて親子だ!!

と、改めて考えれば思えてしまう(むしろそれでいいのかもしれない)内容でした。

けれど、私にはそう見えなかった。物語自体の本質とは別のところで。
それは、朝海ひかるさんと安西君が演じたからなのだと思う。

先ほどあげた「自己中心的な考え方」はアルヴィング夫人とオスヴァルの共通点で、親子であることを実感させる。
それとは別に、朝海さんと安西君の共通点がある。
「下品さが一切ない」こと。

朝海さんを見たのはエリザベート以来で、戦う女性としても母としてもどこかシシィを思い出さずにはいられない。
実際、時代も同じ頃ということで彼女らの抱える問題は同じで、精神の自由を求める点も似ていると思う。
ルドルフ好きの私からすれば、シシィは信用ならないので(笑)朝海ひかるさんが母親役?大丈夫なの?なんて思っていましたが、杞憂でした。

朝海さん演じるアルヴィング夫人は、一度は逃げ出しながらも、ずっとずっと、誰にも本当のことを悟られることなく戦い続けてきた女性であり、それでいて息子のことも大切に思っている人でした。
凛とした佇まい、スッと伸びた背筋。小さくて綺麗な顔はキリッとした表情で、それでいて漂う「ことなかれ主義」の憂いと諦め。
とにかく始終美しかったです。

そして、安西君もまた、とても美しかった。
というか、前から絶対に宝塚出身女優さんとの相性が良いと思っていました。
(それに、るひまのブックレットやパンフとかで和装やら応援団やら着ているのを見るとこれは宝塚おとめだっけ?となることがある)
単に顔立ちの雰囲気からそう思っていた(音月桂さんに似ていると思うこともある)のだけど、生々しくも品や清潔感を失わないお芝居の感じが近いのかもしれません。
ノーブルな服装は似合うし、多少品が無さそうに見えることをしても下品にはならない。
でも、口許に手をやって「栓を抜いてやるかな…」と言ったところなんかは妙な色気があって良かった。

ともすれば、オスヴァルは母親に親子以上の感情を抱いているのではないかと疑いながら観てしまいました。
「僕のためならどんなことでもしてみせるって?僕が頼めば?」
切羽詰まりながらのこの台詞を聞いて、放蕩者の息子で、レギーネにできて母親にできないこと、という連想から肉欲的な方向に考えて邪推してしまった私を許してくださいね。
しかし、近親相姦的な関係に見えてさえ不快にならない程の二人の美しさ。生々しくないいやらしさというか。
手を取る、抱きしめる、前髪をはらう、見つめ合う。ひとつひとつが画になりました。

しかし、見目麗しい親子を待っているのは悲劇でした。
そして、その悲劇が彼らの本性を暴いていく。

まず、孤児院が焼けてしまったこと。
そうしてより一層浮き彫りになった、エングストランやマンデルス牧師の人間性
もう、マンデルス牧師に関しては苦笑せざるを得ないというか、愚直というか、保守的な人なのでしょう。
エングストランには、もう最初から最後まで不快さしかありません。演じている吉原さんは、グランドホテルでも女性に対し酷い役柄だったので本気で怖かった。なので、アフタートークで見せた明るく気さくな雰囲気にはホッとしました(笑)

そして、オスヴァルが実の妹であるレギーネに恋をしていたこと。
オスヴァルが感じていた通りレギーネは薄情だったので、控えめで奥様の言うことには逆らわない女中から豹変してさっさと親子に見切りをつけて出て行きました。
葉巻、酒、女!に続いて近親相姦まで網羅するオスヴァル凄いです。
安西君は苦悩する青年役というジャンルだけでどれだけ枝分かれして演じていくのでしょうか(笑)

極めつけは、オスヴァルを蝕む病。
夫人が恐れていたことは、最悪の形で姿を現してしまった。

あのような男が父親だと思わせたくない、よくない家庭の空気の中に息子を置きたくない。
息子から父親の幽霊を遠ざけようとして戦ってきたというのに。
とうのオスヴァルには、亡き父親の幽霊が遺伝性の病気という形で取り憑いていたのだから。

だからこそ彼は、レギーネを求めた。生きる希望、つまり絶望しないために。
しかし、夫人はオスヴァルからレギーネという「救い」を取り上げてしまった。
エリザベートで例えれば、ルドルフにとってのトートがオスヴァルにとってのレギーネ
先天性の梅毒であることや発作の症状などからこれ以上の悲劇が起きないように、オスヴァルはレギーネに救い=破滅を求めた。けれど、アルヴィング夫人がそれを阻止してしまった。
結局はそれがアルヴィング夫人にとって最大の悲劇となり、守り抜いてきた全てが崩壊へと向かう。

「産んでくれと頼んだ覚えはありませんよ」
「あなたがくれたのはどんな命です?こんなものは欲しくない!」

この辺りの台詞は、思い出しても辛い。
私は独身で子どももいないので本当の意味でアルヴィング夫人の気持ちを理解することはできないかもしれないけれど、実の息子に、大切な一人息子に“生きる希望”を見出してきた彼女が、どんな思いだったか。

私は、アルヴィング夫人に対し同情しすぎなのかもしれない。
岩波文庫から出ている本も読みましたし、おそらくはもっともっとドロドロとした生々しさが渦巻いた作品として取れるのだと思う。直接的ではないけれど、裏にあるのはそれというか。
“放蕩者”と表すのが古い演劇ならではで私はとても好きだけれど、鵜山さんの言葉を借りて”スッキリ”した物言いをすればアルヴィングという男は浮気性のヤリチンの性病持ちで、その結果がレギーネという私生児で、レギーネに対し父親はなんだかいやらしい感じだし、彼女にオスヴァルが性的関心を抱けば異母兄妹であるし、本人は虫喰い─遺伝性の梅毒に罹っている。

性が乱れている!!

だから本当はもっと、肉欲の匂いや性のどうしようもなさを強く感じてもよかったのかもしれない。
けれど、私には女性として精一杯戦ってきた彼女を抱き締めたいとさえ思う。女として。
こういう見え方も有りなのではないだろうか。
朝海さんが演じた意味がそこにある。役者本人の色が透けて見えてくるのも演劇の楽しみ方だと思う。
観客として、女として、娘として、人間として。
この作品はあまりにも考えることが多すぎるし、立場によって見えてくるものが違いすぎる。

そうして考えていく中で気付くのは、私もまさに幽霊に囚われているうちの一人であるということ。
そして自分もまた、誰かにとっては幽霊であること。

誰しも一人で生まれ一人で生きることはできず、父親と母親がいて、血を受け継ぎ生まれてくる。
人と関わり、影響を受けながら育っていく。
その”影響”そのものが幽霊。

この作品では、幽霊はあまりよくない方向に作用しているけれど、私は“愛情”だって幽霊だと思うんです。
血であったり、愛情であったり、思想であったり、性と世間とのしがらみであったり。
憎いものであったり、時に愛おしいものであったり。
人が生きる上で常にまとわりつき、切り離せないもの。ずっとずっと昔から。人類の営みそのもの。
それが幽霊の正体なのだと。

時代背景や、女性という性の歴史、ものの見え方、色々なことを考えることのできる素敵な作品でした。

嘘で塗り固め武装し戦い抜いてきた彼女が全てをかけて守ろうとしたものが、自分の手によって消え去ろうとしている。今、まさに選択を迫られている。
太陽が顔を出し陰鬱としていた屋敷に、光が射す。

「それにみんな、私たち、光をひどく怖がっていますものね」

白日のもと真実を全て曝け出させるその容赦ない残酷さが、彼女自身の愚かさや滑稽さごとを明るみに出してしまう。
「太陽…太陽…」
オスヴァルが求めた生きる希望、抑圧からの解放の象徴である太陽。しかし、それはアルヴィング夫人に何の救いももたらさない。彼女だけが救われることを許さない。

あの、空を見上げた彼女の姿を、全てが崩れ去った瞬間を、私は忘れられそうにない。