Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

安西慎太郎一人芝居「カプティウス」

 

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理解できない作品ってのは時々ある。
それは、単純に脚本がつまらないとか演出が合わなくて、なんていうのとは別。
そもそも理解の定義とは、という話になるがここでの”理解”は物語の筋道がわかってどういうことを言いたいのか伝わってくること、だとして。
物語の感想をウマく言葉にできないだけで、カタルシスによって言いたいことだけは伝わってくる…みたいな作品もあるけど、私にとって「カプティウス」はそれでもなかった。
以前、岩松了さんの「国民傘」という作品を観劇したことがある。
この時、一度観劇して理解ができないながらも、どうしても気になってもう一度劇場に足を運んだ。
戯曲が載っている雑誌も買った。
戯曲本は何冊も持っているが、あんなボロボロになるほど読んでいるのは国民傘だけだ。
何度も読んでるが、結局のところ何が言いたいのかさえ未だに理解していない。
でも、記憶に強く残り続けどうしても気になってまた戯曲本を開いてしまう。

 

今回の『カプティウス』もそれに近いところがあった。

 

これといって何が言いたいのかというメッセージはいまいち感じられなかったし、アフトで若干の解説はあったけどいまいちピンとこなかった。
それはこちら側の理解力や想像力が足りないのか、脚本演出の問題なのか、演者の問題なのか、とかは正直わからない。
わからないが、10人観たら10人が面白かった~!って晴れやかな顔して帰ることを求められているわけでもないだろうし、これでいいのだろうと思う。

脚本演出を担当した下平くんに全てを説明してほしいわけでもない。ご本人もおっしゃっていたが、説明してしまっては夢が無い。

演劇、とくに今作のようなタイプの演劇は”考える余白”がある方が面白い。
私自身、面白い!と手放しに言うことはできないけど、あえて表現できるとすれば「好き」という言葉になるだろう。

 

 

あらすじについて 

”男”がバースツールという椅子の説明をするところから始まり人間の認識について目を向ける。
そして、太宰治人間失格という作品について述べ始め、自身の生い立ちからこれまでの人生を語り出す。
また人間失格の話に移り、先ほどまではただ話すようだった口調が演説のように変わっていく。人は何かを話す時、相手に伝わるように整理して話す。始まりから終わりまで筋道を通して最後までつなげて行く。しかし、”男”の話す言葉は矛盾を孕んでおり、時折まくし立てるようでもある。頭の中の整理されていない、言葉にする前の思考をそのまま口にするような危うさ。不安定な感情が見え隠れする中、客席に向かって投げかけられる矛盾した言葉の数々。
ラストは、ポケットから出した薬を口にしたところで暗転してしまう。

 

生への冒涜を行った、と人間失格の主人公の行いを否定した口で薬を飲むあたり、本当に彼のことが理解できない。そもそもあの薬はなんの薬なんだ?死ぬためのそれではなく、抗うつ剤なのか?
その理解できなさに、初日に関しては特に思考を持っていかれて何も受け取ることができなかった。

更にこれは批判になるかもしれないが、男の生い立ちの中には安西君のエピソードが交ぜられており、そこに意味があるのか(人間失格も若干太宰とリンクするし)と思ったけれど、とくに意味は無いらしいとアフタートークで聞いて拍子抜け。

安西でも下平でもないし誰の価値観でもないのだと。

別にそれでもいいし、役者に興味無い場合はそんなのは気にならないはずだ。
でも、客が安西慎太郎のファンばかりであろうと予想される中で、そこがノイズになるとは思わなかったのだろうか。
音の高低差まで綿密に計算しているのに?
むしろそこまでも計算のうちで、こちらを混乱させたかったのだろうか?
っていうのは、無いような気はする。本当にそういうつもりがなかったのであれば、ただの雑音にしかならない設定だったと思う。
事実、そこに思考が持っていかれて余計なことを考えすぎた 。
以前、アルカディアを観た時に陥ったことだけど、脚本にトリックがありそうかつやたらと小難しいことを言う作品は目の前で起きている事以上に台詞や仕草ひとつひとつについての意味を考えてしまい、”感じる”ことを忘れてしまう。
今回も正直、千秋楽以外はその状態になってしまった。

 

感想について

さて、単純にこの作品を観た感想を言えば、私は今結構幸せなのだと実感できた。
カプティウスという作品は、明確なメッセージがないわりに男の変わった生い立ちのせいか、そこにだけは感情移入しやすくなっているために、観る人によっては自分の人生や立ち位置と重ねながら色々考えた人もいると思う。
それで言うと、私は多少不満はあれど家族友人仕事どれもにまあまあ恵まれているために男の言葉が入ってくる隙はなかった。
男に対し多少の同属嫌悪はあったけれど、それも大したことではない。
男という人間がそうであったように、人はどうしたって他人と繋がりたいと思うものだし、他者を通してしか自分を認識できない部分がある。
人間失格を読んでも、ごちゃごちゃ言ってないで生きたきゃ勝手に生きろよ!という感想しか持てないでいる私ですが、それは今恵まれているから。
他者や社会と繋がることができている自信があるから。他者との強い繋がりのおかげで自己を確立できており「生きる」ことに余計な思考がない。
本音を言えば、本当は毎日死にたいよ。こんな世の中やってらんねーことばっかだよ。
だけど、それと同じくらい300年寿命がある!くらいの気持ちで友人と遊んで観劇してひとつの作品のことを一生懸命考えてる。こういう作品に出会えた時、やっぱ生きててやってもいいかなーくらいの感じで精神を保てている。

 

生きることは思考すること。
人間って面白いなぁと思う。
生きるってのは、かっこいいもんじゃないね、ほんとに。
ところで、男が認識している生と死は私の認識しているそれと同じかしら?

 

 

 

下平くんについて

言ったら、人間失格を読んだってだけの話じゃないですか。
アフトの感じだと「人間失格」に強い興味があるわけでもなく。
いたって冷静に作品や演劇業界を見ながらこの作品を書いてるんですよね。
こえーなぁって思いました。
人間失格を読んだってだけの話を3万5千字書いちゃうくらいだから、よっぽど人間失格に心酔してるのかと思ったら。
でも確かに、そう聞いてから戯曲を思い返すと"男"は人間失格のアンチでもファンでもないし。
そういうところは、ある意味下平くんや安西くんの視点でもあるのでしょう。
演劇という商業ビジネスのこと、観客のこと、脚本というもの、を冷静に見ながらあんな御託を並べた作品を書いてるなんて、やっぱり正気じゃないです。

白地に格子柄の床、バースツール、天井はミラー。数度だけ光る照明。
語りが進むのに合わせて変わる衣装、減っていく水。
隙だらけのようで隙の無い雰囲気は、千秋楽の下平さんのアフタートークでの話しを聞いてなんとなく納得した。
私は意図的な隙のある脚本が好きだけど、カプティウスは解釈の余地がある作品のわりにやたらと窮屈で息苦しくてしょうがなかった。
その辺りは、下平くんの演出の細かな指示、意図が働いていると思うのでまんまとやられた。
声の高低差、それを音響でも指示し、客の身じろぎひとつまで。
さらにはステージを四方から囲む狭い会場ということで、演者だけではなく観客同士も近い距離で向き合う緊張感。
どれもこれも演出に支配されていたわけで。
つまり我々も含めてカプティウスですよ。
ちょっと彼に興味が沸きました。

 

安西慎太郎について

最高でした。
そもそも、この挑戦をしてくれようと思ったことが嬉しかった。
不安もあったでしょう、怖くもあったでしょう。
でも、そういうところに飛び込んでいくのが安西慎太郎という不思議な男の子です。

安西慎太郎の何が好きって、たぶんポテンシャルなんですよね。
演出の下平くんが、安西は肝が据わってる、と言っていたけどつまりはそういうことなんでしょう。
いつもいつも基本的に良いなって思う、いい芝居するなって思う。
でもそれが求めるものの100点かって言うと、もちろん100点の時もあって、だけどその次の瞬間には「この人、もっとやれるな」みたいな不思議で身勝手な自信がわいてきてしまう。
期待とは偏見だという台詞があった作品で過度な期待をするのもアレですけど、偏見って悪いことだけじゃないですからね。
偏見をプラスの意味で捉えれば期待みたいなもんでしょう。

そして、これは本当にサビかってくらい何度も言ってしまうんですけど。
20歳の役を演じられる役者はたくさんいる。
だけど、その役の20年間を感じさせてくれる役者は多くない。
人は生まれながらに20歳ではないし、背負ってきた人生があるはずなのに。
安西くんの芝居には、いつもその20年間を感じるんですよね。
そこがすごく好きなんです。

今回、私は千秋楽になってやっとカプティウスという芝居を”感じる”ことができた。「そんな目で私を見ないで」のところからどうにもこうにもなんだか色々込み上げてきて、なんか泣けてきて。それまで一回も泣いたりしなかったのに。
まくし立てるみたいな言葉の数々が振ってきて、こっちの息が止まりそうだった。もっと続けと思った。
あの瞬間が、幸せ。
「絢爛とか爛漫とか」でも感じた。最後の一人語りの時。
ストレートの芝居で、それもこんな飽きそうな芝居で、もっと続けと思わせてくれる推しですよ。
「幸せだ。幸せだ。幸せだ。」

 

ああ~~彼はきっと、もっともっと絶対に良い芝居をするようになる。

私は人に天才と言いたくない。それを言うことで、天才なんだから当たり前と人の努力をなかったことにしてしまう気がするから。
だから安西くんに対しても、天才と評してしまうことで突き放したくない。
でも、そう思わせるだけの”何か”があること自体は、まさに天からの才能と言って良いだろう。

 

 「言葉の綾ですよ。言葉の綾。」

 

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