Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

安西慎太郎一人芝居「カプティウス」

 

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理解できない作品ってのは時々ある。
それは、単純に脚本がつまらないとか演出が合わなくて、なんていうのとは別。
そもそも理解の定義とは、という話になるがここでの”理解”は物語の筋道がわかってどういうことを言いたいのか伝わってくること、だとして。
物語の感想をウマく言葉にできないだけで、カタルシスによって言いたいことだけは伝わってくる…みたいな作品もあるけど、私にとって「カプティウス」はそれでもなかった。
以前、岩松了さんの「国民傘」という作品を観劇したことがある。
この時、一度観劇して理解ができないながらも、どうしても気になってもう一度劇場に足を運んだ。
戯曲が載っている雑誌も買った。
戯曲本は何冊も持っているが、あんなボロボロになるほど読んでいるのは国民傘だけだ。
何度も読んでるが、結局のところ何が言いたいのかさえ未だに理解していない。
でも、記憶に強く残り続けどうしても気になってまた戯曲本を開いてしまう。

 

今回の『カプティウス』もそれに近いところがあった。

 

これといって何が言いたいのかというメッセージはいまいち感じられなかったし、アフトで若干の解説はあったけどいまいちピンとこなかった。
それはこちら側の理解力や想像力が足りないのか、脚本演出の問題なのか、演者の問題なのか、とかは正直わからない。
わからないが、10人観たら10人が面白かった~!って晴れやかな顔して帰ることを求められているわけでもないだろうし、これでいいのだろうと思う。

脚本演出を担当した下平くんに全てを説明してほしいわけでもない。ご本人もおっしゃっていたが、説明してしまっては夢が無い。

演劇、とくに今作のようなタイプの演劇は”考える余白”がある方が面白い。
私自身、面白い!と手放しに言うことはできないけど、あえて表現できるとすれば「好き」という言葉になるだろう。

 

 

あらすじについて 

”男”がバースツールという椅子の説明をするところから始まり人間の認識について目を向ける。
そして、太宰治人間失格という作品について述べ始め、自身の生い立ちからこれまでの人生を語り出す。
また人間失格の話に移り、先ほどまではただ話すようだった口調が演説のように変わっていく。人は何かを話す時、相手に伝わるように整理して話す。始まりから終わりまで筋道を通して最後までつなげて行く。しかし、”男”の話す言葉は矛盾を孕んでおり、時折まくし立てるようでもある。頭の中の整理されていない、言葉にする前の思考をそのまま口にするような危うさ。不安定な感情が見え隠れする中、客席に向かって投げかけられる矛盾した言葉の数々。
ラストは、ポケットから出した薬を口にしたところで暗転してしまう。

 

生への冒涜を行った、と人間失格の主人公の行いを否定した口で薬を飲むあたり、本当に彼のことが理解できない。そもそもあの薬はなんの薬なんだ?死ぬためのそれではなく、抗うつ剤なのか?
その理解できなさに、初日に関しては特に思考を持っていかれて何も受け取ることができなかった。

更にこれは批判になるかもしれないが、男の生い立ちの中には安西君のエピソードが交ぜられており、そこに意味があるのか(人間失格も若干太宰とリンクするし)と思ったけれど、とくに意味は無いらしいとアフタートークで聞いて拍子抜け。

安西でも下平でもないし誰の価値観でもないのだと。

別にそれでもいいし、役者に興味無い場合はそんなのは気にならないはずだ。
でも、客が安西慎太郎のファンばかりであろうと予想される中で、そこがノイズになるとは思わなかったのだろうか。
音の高低差まで綿密に計算しているのに?
むしろそこまでも計算のうちで、こちらを混乱させたかったのだろうか?
っていうのは、無いような気はする。本当にそういうつもりがなかったのであれば、ただの雑音にしかならない設定だったと思う。
事実、そこに思考が持っていかれて余計なことを考えすぎた 。
以前、アルカディアを観た時に陥ったことだけど、脚本にトリックがありそうかつやたらと小難しいことを言う作品は目の前で起きている事以上に台詞や仕草ひとつひとつについての意味を考えてしまい、”感じる”ことを忘れてしまう。
今回も正直、千秋楽以外はその状態になってしまった。

 

感想について

さて、単純にこの作品を観た感想を言えば、私は今結構幸せなのだと実感できた。
カプティウスという作品は、明確なメッセージがないわりに男の変わった生い立ちのせいか、そこにだけは感情移入しやすくなっているために、観る人によっては自分の人生や立ち位置と重ねながら色々考えた人もいると思う。
それで言うと、私は多少不満はあれど家族友人仕事どれもにまあまあ恵まれているために男の言葉が入ってくる隙はなかった。
男に対し多少の同属嫌悪はあったけれど、それも大したことではない。
男という人間がそうであったように、人はどうしたって他人と繋がりたいと思うものだし、他者を通してしか自分を認識できない部分がある。
人間失格を読んでも、ごちゃごちゃ言ってないで生きたきゃ勝手に生きろよ!という感想しか持てないでいる私ですが、それは今恵まれているから。
他者や社会と繋がることができている自信があるから。他者との強い繋がりのおかげで自己を確立できており「生きる」ことに余計な思考がない。
本音を言えば、本当は毎日死にたいよ。こんな世の中やってらんねーことばっかだよ。
だけど、それと同じくらい300年寿命がある!くらいの気持ちで友人と遊んで観劇してひとつの作品のことを一生懸命考えてる。こういう作品に出会えた時、やっぱ生きててやってもいいかなーくらいの感じで精神を保てている。

 

生きることは思考すること。
人間って面白いなぁと思う。
生きるってのは、かっこいいもんじゃないね、ほんとに。
ところで、男が認識している生と死は私の認識しているそれと同じかしら?

 

 

 

下平くんについて

言ったら、人間失格を読んだってだけの話じゃないですか。
アフトの感じだと「人間失格」に強い興味があるわけでもなく。
いたって冷静に作品や演劇業界を見ながらこの作品を書いてるんですよね。
こえーなぁって思いました。
人間失格を読んだってだけの話を3万5千字書いちゃうくらいだから、よっぽど人間失格に心酔してるのかと思ったら。
でも確かに、そう聞いてから戯曲を思い返すと"男"は人間失格のアンチでもファンでもないし。
そういうところは、ある意味下平くんや安西くんの視点でもあるのでしょう。
演劇という商業ビジネスのこと、観客のこと、脚本というもの、を冷静に見ながらあんな御託を並べた作品を書いてるなんて、やっぱり正気じゃないです。

白地に格子柄の床、バースツール、天井はミラー。数度だけ光る照明。
語りが進むのに合わせて変わる衣装、減っていく水。
隙だらけのようで隙の無い雰囲気は、千秋楽の下平さんのアフタートークでの話しを聞いてなんとなく納得した。
私は意図的な隙のある脚本が好きだけど、カプティウスは解釈の余地がある作品のわりにやたらと窮屈で息苦しくてしょうがなかった。
その辺りは、下平くんの演出の細かな指示、意図が働いていると思うのでまんまとやられた。
声の高低差、それを音響でも指示し、客の身じろぎひとつまで。
さらにはステージを四方から囲む狭い会場ということで、演者だけではなく観客同士も近い距離で向き合う緊張感。
どれもこれも演出に支配されていたわけで。
つまり我々も含めてカプティウスですよ。
ちょっと彼に興味が沸きました。

 

安西慎太郎について

最高でした。
そもそも、この挑戦をしてくれようと思ったことが嬉しかった。
不安もあったでしょう、怖くもあったでしょう。
でも、そういうところに飛び込んでいくのが安西慎太郎という不思議な男の子です。

安西慎太郎の何が好きって、たぶんポテンシャルなんですよね。
演出の下平くんが、安西は肝が据わってる、と言っていたけどつまりはそういうことなんでしょう。
いつもいつも基本的に良いなって思う、いい芝居するなって思う。
でもそれが求めるものの100点かって言うと、もちろん100点の時もあって、だけどその次の瞬間には「この人、もっとやれるな」みたいな不思議で身勝手な自信がわいてきてしまう。
期待とは偏見だという台詞があった作品で過度な期待をするのもアレですけど、偏見って悪いことだけじゃないですからね。
偏見をプラスの意味で捉えれば期待みたいなもんでしょう。

そして、これは本当にサビかってくらい何度も言ってしまうんですけど。
20歳の役を演じられる役者はたくさんいる。
だけど、その役の20年間を感じさせてくれる役者は多くない。
人は生まれながらに20歳ではないし、背負ってきた人生があるはずなのに。
安西くんの芝居には、いつもその20年間を感じるんですよね。
そこがすごく好きなんです。

今回、私は千秋楽になってやっとカプティウスという芝居を”感じる”ことができた。「そんな目で私を見ないで」のところからどうにもこうにもなんだか色々込み上げてきて、なんか泣けてきて。それまで一回も泣いたりしなかったのに。
まくし立てるみたいな言葉の数々が振ってきて、こっちの息が止まりそうだった。もっと続けと思った。
あの瞬間が、幸せ。
「絢爛とか爛漫とか」でも感じた。最後の一人語りの時。
ストレートの芝居で、それもこんな飽きそうな芝居で、もっと続けと思わせてくれる推しですよ。
「幸せだ。幸せだ。幸せだ。」

 

ああ~~彼はきっと、もっともっと絶対に良い芝居をするようになる。

私は人に天才と言いたくない。それを言うことで、天才なんだから当たり前と人の努力をなかったことにしてしまう気がするから。
だから安西くんに対しても、天才と評してしまうことで突き放したくない。
でも、そう思わせるだけの”何か”があること自体は、まさに天からの才能と言って良いだろう。

 

 「言葉の綾ですよ。言葉の綾。」

 

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6/26「劇団シャイニング 天下無敵の忍び道」シアターGロッソ


うたのプリンスさまの派生である劇団シャイニングをさらに派生させた異色の舞台。
元のドラマCDではプリンスたちが演じているのを、二代目という形で演じる。
原作ファンにかなり気を遣った企画に、そういうやり方もあるのだなと感心した。
さすがにうたプリ自体はかなり有名なので知っているけれど、アニメは数話ちらっと見たことがある程度。
身近にプリンセスがいたりするのでキャラソンはちょこちょこ聴いている。

そんな私でも、じゅうぶんに楽しめる作品でした!!


あらすじは、謝意忍具流の忍者である音也衛門とセシル丸。
そして早乙女流の忍者、真影と翔ノ助。対立する二つの流派の前に現れる、羅刹流の忍者たち。
羅刹流は、二つの流派を滅ぼし忍びの世界を牛耳ることで世界さえ手に入れようとしていた。
何故か漏れている情報、襲撃にあい失う仲間──
敵の敵は味方、昨日の敵は今日の仲間。
4人は流派の壁を越え力を合わせ、敵を倒す。
2時間ノンストップで行われるヒーローショーのような、勧善懲悪のわかりやすいお話でした。さすがGロッソ。
敵側をあまり掘り下げないことで、主役はあくまで4人という構成にしているのもポイントが高い。

 

☆謝意忍具流☆
この舞台、まさか泣くとは思っていなくてハンカチを膝に用意していなかったことを後悔した。
それはもう確実に、謝意忍具流の二人のせいです。本当に泣かされた。
小澤廉くん演じる音也衛門(なんて発音しにくい名前なんだ)と、横井翔二郎くん演じるセシル丸。
二人は平野勲人さん演じる才念先生の元で修行していた。
二人の出会いは一年前。セシル丸は道で行き倒れていた。そんな彼を音也衛門が助けてくれたのだ。
異国の者であるセシル丸は、おにぎりを食べるのも、おかかを食べるのも初めてだった。その美味しさと音也衛門の優しさに感動した。
「セシル」と名乗ると、音也衛門がセシルはこの国では「世知る」世を知ると書くのだと教えてくれて日本らしいセシル丸という名前をくれた。嬉しかった。
セシル丸は、いつでも隣でにこにこ笑ってくれる音也衛門とずっと一緒にいたいと思っていた。

しかし、実はセシル丸は自国に帰るために羅刹流に協力している間者であり情報を漏らしていた。
この時に、音也衛門が全部ウソだったの?と問いかける。
「おにぎりが美味しいって言ったのも?」
「…イエス
「おかかが美味しいって言ったのも?」
「…イエス
全部ウソだったと答えるセシル丸の表情はどう見たって嘘じゃなかったって顔で…
セシル丸って名前をつけてもらえたのだって嬉しかったのに「わたしはセシル」って名乗るのも…
切なすぎて涙が次から次へと。
セシル丸が回想する記憶の音也衛門の笑顔が眩しいのも、その切なさをさらに掻き立てた。

廉くん=笑顔と言ってもいいほど、彼自身笑顔のイメージが強い。
そりゃあ1年間も隣であんな笑顔を向けられて優しくされたらギスギスしている羅刹流よりいいに決まってるよ…
そして、だからこそそんな廉くん…いや、音也衛門がもう裏切り者の自分にはもう笑いかけてくれないかもしれないと思ったら辛いだろう。

羅刹流はセシル丸を試すために、才念先生に留めを刺させる。
才念は音也衛門を育ててくれた大切な人。そのことで音也衛門もセシル丸を討つ覚悟を決めるが、刀を振りおろし切れない。
最後は、実は才念が生きていたこと、セシル丸がその手助けをしていたこと、さらには才念先生はすべてを知っていたことで大団円。
ああ、よかった(涙)

廉くんは生で見たのが初めてだったけど、やっぱり可愛いし笑顔が輝いているし声が聴き取りやすくて良い。
横井くんは、未知数だったのでどうかな?と思っていたけど、びっくりする小顔具合とスタイルの良さ、そしてその初々しさがセシル丸と相まってとても良かった。
あと何気に才念役の人がおもしろい人で和ませてくれるのがとても笑えたw


☆早乙女流☆

うえちゃん演じる翔ノ助と和田君演じる真影は水と油。
仲間を重んじ後輩を大事にしている翔ノ助は、一人でいようとする真影が理解できないながらも声を掛けたり気に掛けていた。

しかし、あまりにも頑なな真影。
その理由は、貧しい家に生まれ病気の妹の為に忍になる道を選んだ過去。
賢い真影ならばもっと別の道があったかもしれないのにと謝る父に、仕方のないことと受け入れる姿勢を見せる。

大切な家族のために、個の自分は捨てた。
失う悲しみを味わうくらいなら、最初から持たぬ方がいい。
任務を遂行するために自分がある、そのためなら命を捨てても構わん。

そう言ってのける真影asわだまさなり…は、長谷部…
ちょっともう…また…命を大事にしてくれ…
直近で八犬伝を観ている人には小文吾も過ったのではなかろうか。

戦いの中で、自分を慕ってくれる後輩を失った翔ノ助。
どんな仲間も大事に思う彼と、「個が強ければ組織は成り立つ」という考えの真影と言い合いになる。
真影が「お前に何がわかる!」と、貧しさのために家族のために、個を捨て未来を捨てた自分の気持ちがわかるのかと。
激しく吐露する場面は、おいおい真影ちょっと情緒不安定すぎでは?と思ったけれど、元々安定もしていなかったのだろう。
誰かのために我慢できてしまう不器用で優しい真影が、心を捨てるなんてできるわけもなく。
とはいえ、言ってもいないんだから真影の気持ちがわかるわけないだろうとも思うが。

しかし、翔ノ助は優しいので羅刹流との戦いの最中真影をかばって傷を負う。任務遂行を重んじる真影が、襲撃された城へと迎えるように。
それは、翔ノ助が真影を仲間としてとして大事に思っているからこそ。
そんな翔ノ助に心を打たれた真影は、任務遂行のために城に向かいそこにいた羅刹流忍者大羅と戦う。
仲間を守るため、翔ノ助の元へ戻るために。
本当は心を捨てるなんてできないくせに、そんな不器用で可哀想で面倒な真影を翔ノ助が変えた。
そして再び戻ると、ボロボロになった翔ノ助に「お前が必要だ」と仲間として認めたことを伝え共闘する。
戦いが終われば「動くな馬鹿者」「動かせたのはお前だろ!」と仲良く言い合い。笑
マイクに入っていない小さなひそひそ声で真影が「そこに座っていろ」って言っているのが聴こえて微笑ましかった。
ちゃんとお礼を言い合ったり、お互いを認めたりと平和な終わりを迎えて嬉しかった。

役者的なことを言うと、どちらもそうだろうなという役だったので意外性はなく。
というか、これは和田くんとうえちゃんでは?笑 くらいの。
二人の関係性を思うと、見ているこっちも楽しく思えててくる。仲良しさん。
和田君はまたも本人とはかけ離れたムスッとした役。命を大事にできない、けれどとても優しい不器用な人。
滑舌の甘さと殺陣のふわっと加減がちょっと気になったので直してもらえると嬉しいな。それにしても、長谷部といいここまで私が好きそうなキャラを演じるか。
うえちゃんは元気ですばしこくて、美咲っぽいなと思いました。ロスモワの時を思い出すと言うか、優秀なカウンセラー(笑)


★羅刹流★

なにげに切なかった流派です。
鯛造くん演じる信羅は、いわゆるヒャッハー系の悪役で羅刹を盲信している。自分が一番の従者でありたい、信頼されていたい。
寿大くん演じる大羅は、大きく強く賢く優しくて、信羅を仲間として大事に思っている。

大羅は信羅を大切に思うあまり、戦闘中助けてしまう。信羅からすれば余計なことだし、彼が羅刹に褒められるのも嫌。
しかし大羅はそう思われていようと仲間が大事だ。
真影との戦闘中「守りたいものがあるのは俺も同じだ」と戦っていて、こちらも胸を打たれた。

信羅もまた、大羅の槍が形見として渡された時、切なげな表情をした。
それでも一番は羅刹なのでそのために戦うが、羅刹が死んでしまう。
4人は信羅を見逃すと言ったが、彼自身はそれを良しとしない。羅刹のいない世界に意味はないからだ。
彼はあの世で羅刹様の役に立つのだとヒャッハーしながら自分の腹を武器で何度も突き刺し、最後は喉を掻き切って死んでいった。
プリンセスたちはこの死に様をどう思ったかちょっと考えてしまったが、個人的には派生作品においてオリキャラが潔く死ぬと言うのは好感が持てる。
あくまで派生作品なので、本筋に影響したりなんらかの可能性は無い方が良いのだ。

ある程度かわいそうで、けれどあまり余韻を残さない。
悪を描きすぎるとどちらに感情移入していいのかわからなくなるので、あくまで主役は4人とした構成に乾杯。

鯛ちゃんの殺陣はさすがでした。4人だけ出ていた時には気にならなかった和田君の殺陣が、鯛ちゃんの登場により一気に…ああ…となりました(笑)
鋭く強い殺陣は、かっこいいとしか言いようがない。悪役にハマっていた。可愛いイメージが強かったけど、こういう役も合っているな~と思わせてくれた。
寿大くんは生で見るのが初めてだったけど、で、でかい…あの大きい体ででかい槍を操るのを間近で見るとこちらも命の危険を感じますね。

 

ラストのレビューはあまりにもいきなり始まるからびっくり。
ペンライトの準備があわあわしたので、これから観に行く人は取り出しやすいところに置いておくと良いと思う(笑)
元の曲がどうなのかとか全然わからないけど、とりあえず楽しかった。
促されるままペンライトを振り、し・の・び!と慣れないながらも一緒に動いて、扇子をひらひらさせるりんりんにキャッキャし、仲良しな面々を見てにこにこした。
こういうライブパートというのはあまり好きな方ではないんだけど、やっぱり席が良いと楽しめるなと思いました。
音也衛門の手を引っ張ったり背中を押したりするセシル丸が可愛い。
「早く登ってこいよ~!」って真影に向かってジェスチャーする翔ノ助も、翔ノ助のおでこをぺしぺし叩く真影も可愛い。

 

楽しいお芝居見て、おまけにイケメンがキラキラしているところも見られて幸せ~ってなれる舞台でした。

 

ちなみに、この日物販で買ったペンライトが途中で故障し青にしていたはずが赤から変わらなくなり、おまけに電源も落とせなくなり。
終わった後も、ずっと赤く発光し「お前いつまで光らせてんだよ」「音也衛門の過激派かよ」みたいな状態でしたが(笑)、スタッフさんに伝えたところ快く交換してもらえました。
全体的にスタッフさんが優しいし迅速スムーズ丁寧という感じでその点も個人的に良かったなと思いました。

5/21「ライブスペクタクルNARUTO~暁の調べ~」

 

 

「久しぶりだな木葉丸!二年半ぶりだってばよ!」


ナルト登場シーンのたった一言で涙。
これぞ2.5次元!の醍醐味を味わいました!


初めてのナルステは、まさに暁の”調べ”といったところで、OPから暁が歌うという幕開け。

今回はキャストに知っている名前も多く、それもそのはずで良知さんや亮輔くん、玲くんにせしるさんとミューでよく見る方、歌の上手な方がたくさん!
とはいえ、初演を配信で観た印象からそんなに歌うとは思っていませんでしたが今回はミュージカルと銘打ってもいいのではないかと思うほど歌っていました。
これだけ駆け足であの膨大な物語を進めるとなると、歌の力があった方が説得力も迫力もあるのかなと思う。

今回は二部、疾風伝から始まった。
映像と共に次々と登場するキャラクターたちに感極まり、まだろくに台詞を喋ってもいないうちから感動。
ナルトは、私にとって初めてハマった少年漫画で思い入れも強くナルステをやると聞いたときは怖くて初演も再演も観に行けなかった。
でも、広大くんの笑顔のキラキラはナルトのエネルギーそのものだった。
一人ずつ出てきてポーズを決めて、それだけで「あ~みんな3次元に存在してる…尊い…」と実感できることが2.5次元の幸せ。


物語は、カカシの代理であるヤマトを隊長とした新カカシ班誕生のところから。

サクラちゃん役の伊藤優衣ちゃんは、ナルステを映像で観た時が初見だったのだけど絶妙な可愛さ。美人系ではなく、かといってロリでもいけない。普通のようでいて可愛くなければならない難しい位置にいるキャラ。
生で見ると思っていたよりずっと華奢でびっくりした。その細さが、カカシ班唯一の女の子なのだなと感じるし、そのうえでのサクラちゃんの気丈さに感動する。
「ナルトのことは許してあげて」と言ってサイを殴り「私のことは許さなくていいから」の一言は本当に痺れる。
また、声も良くて「しゃーんなろー!」もばっちりハマっていた。
これ以上ないキャスティング。サクラちゃん大好きです。

ヤマト役が玲くんと発表された時はなぜ?と思ったのだけど、実際舞台を観て納得。
歌うためのキャストであることと、身長もちょうど良かった。
ミューではないのによく歌うなと感じたこの舞台の中で、もっとも「なぜこれを歌にした!?」の場面がヤマトの歌でした。笑
けれど、それが逆に良い意味で抜け感があり、玲くんということもあって笑えて和めるシーンになっていた。
かっこいいけど、ちょっと笑える。そういう玲くんのカラーが出ていたように思う。

サイ役のきたむー。
人間離れした真っ白な肌を持つサイを演じたきたむーは、彼自身肌の白さと髪の黒さのコントラストが綺麗な人なのでぴったりハマっていました。
サクラちゃんに向かってにこやかに言い放つ「僕は好きですよ。感じのいいブス」最高でした。

サイはちゃんと見せ場もあり、兄との絆、ナルトやサクラとの仲間としての心の芽生え。
時間の都合によりそれらがあまりにもスピーディーで、サイの心変わり早いな!?って感じでしたけど、これくらいサクっとしてると逆に見やすいなとも思う。
サイがお兄さんのことを歌う歌では涙が…。


大蛇丸のアジトでの、サスケとの再会。
大蛇丸が”私のサスケくん”と呼ぶと「オレの前で自分のものみてーにサスケの名を口にすんじゃねーってばよ!!」と返すナルトと、
イタチへの憎しみが成就されれば自分の身体などどうなっても構わないサスケという対比が辛い。
腕がもがれりゃ~のあの物凄い台詞も聞けて満足。

今回からカブト役が亮輔くんになりましたが、彼が歌うとさすがだなと。
よく通る綺麗で癖のない声と、カブトのうさんくささは亮輔くんに合っている(良い意味で!)と思います。
掌を青く照らすという仕掛けも好きです。

 

二幕は、正直イタチVSサスケが全て持って行ってしまった気がして記憶が定かではありません。
涙ですべて流れていってしまいました。


カカシ先生のお見舞いに行くナルト、サクラちゃん、サイの三人が可愛い。
サイの「ブス」発言が和む感じで使われていて、なんとなく緊張感がほぐれてよかったし仲良くなっているのがわかって微笑ましかった。

そして、ただ何も考えず寝ていたわけではないカカシ。
カカシ先生役の君沢さんはテニミュのオサムちゃんの時といい、気だるいんだけどかっこいいという役柄にハマりすぎなうえ顔があれだけかっこいいのはずるいと思う。
あの綺麗な顔を前髪とマスクでほぼ覆ってしまうというなんて…贅沢すぎます。
声が井上さんそっくりで、あれ?井上さんが喋った?と思う瞬間があるほどでした。

カカシ先生の助言により修行をするナルト。
演出と仕掛けがなかなか面白くて、良かった。
サスケを連れ戻すために集まった面子の中にシノがちゃんといたのが嬉しかったなあ。

その頃、サスケは大蛇丸を殺して蛇を結成。
水月役の萩尾くんの声がそれらしいのと、歌がうまくてよかった。
七木奏音ちゃんはライチ光クラブに続いて二度目。相変わらずの美人できれいな顔。
普段はぽわ~んとした子なのに、役に入ると急に別人になってしまうところが魅力的だと思う。
声も良いし、美人で、むちっとした太腿がサクラちゃんとはまた別の香燐らしい色っぽさがあって素晴らしい。
重吾役の山口さんも、あの短い時間の中で難しい役どころをしっかり演じられていたなという印象。
このメンバーに関してはどうしても時間が短くて本当に自己紹介で終わってしまった感じ。
良いキャストだったと思うから、次があるなら出てほしいなあ。

デイダラ戦は…こう、表現の限界というものを感じました(笑)
でも、役者さんたちの熱意を感じる場面でもあった。
デイダラ戦、飛段角都戦、サソリ戦辺りを細かく描いた話ならまた違った演出で観られたんだろうにな~そこは惜しい。

そして、サスケを追うナルトとイタチが出会い、話をする。
何を話していたのかは明かされないまま、イタチとサスケの戦いへ。

今作のクライマックスは、うちは兄弟の対決。

どこまで描かれるのかな~?なんて軽く考えていたのでまさか二人の決着までやるとは思わず心の準備もないままに、イタチの死を目の当たりにすることになってしまいました。

内容は知っているのに、この先どうなるかは知っているのに、目の前で起こっているのに、なにもできないままただ見守るしかない歯がゆさを感じてしまった。
イタチの余裕を感じさせる演出も良くて、周囲の観客が息を飲んで見守っているのがわかるほど見応えのあるシーンでした。

サスケ役の流司くんを生で見るのは初めてで、これまでに財前や久我、加州などは映像で見たことがありました。
が、この子は生で見る方が断然良いと思った。
もちろん、他の役者さんも含めて舞台は実際に劇場に足を運んで観る以上に良いことはないけれど、それでも。
独特の空気を作り出すのがうまい役者だと感じた。
演じることに照れがないというか、役に入る集中力があるというか。
サスケ自身が疾風伝に入ってからはよりダークサイドで厨二な雰囲気だけど、それも相まってかまるでV系バンドのボーカルのようなサスケだった(褒めています)。
そして、とにかくサスケとして生きてくれているというのがひしひしと伝わってきた。
イタチを殺した、と込み上げる歓喜から一変する絶望の表現があまりにも良くて、サスケが生きている…!と思いました。

「許せ、サスケ」とは声に出さないまま、イタチは死んでしまう。
疲れ果てたサスケの前に現れたマダラ。自身の意思以外で発動する天照と、初めて知るあの日の真実。

イタチが後ろから登場した時、ああうちは兄弟で歌うんだなとわかって先走った涙が。

ここまで、さすがの良知さんビブラートだなって思いながら彼の歌を聴いていたんですけど、この時だけは違うニュアンスでとても優しく歌うものだから余計に涙が出てしまった。
本当はとてもとても優しくて、家族想いで、何より弟を大切にしてくれるイタチの真実。
キャラソン等がないナルトの世界で、まさかイタチとサスケがデュエットする日がくるなんて思っていなかった。

正直、ジャンプを読みながら『一族殺した兄さん憎い殺す→本当は兄さん優しかったそれなのにこんなことをさせた木葉潰す』
という流れが、おいおいサスケェ!って思ってたんですけど、ここまで一息に見せられるとはしょられていても流れがわかりやすいので、
今までは、一族を殺したイタチが憎い殺すと身も心も友さえも犠牲にして強くなり戦ってきた。
それなのに、憎んできたはずのイタチは自分を想ってくれる優しく強い兄さんのままだった。
本当はサスケだってとても優しい子で、木葉潰しなんて縁のない子だったはず。
けれど、全てを捨て憎しみを糧に生きてきたサスケはまた何かを憎まずにはいられなかったのだ、それが彼の生を支える軸となってしまったんだなと実感させられた。

イタチが「許せ、サスケ」と今度は本当に声を出して伝えた後、崩れ落ちるように歌うサスケ。

"兄さんはあの時、泣いてた"

掠れたサスケの声がまた切なさを掻き立てて、もう拭うのも諦めるほど泣けた。

その後、うちは兄弟の戦いが始まる前のナルトとイタチの会話が明かされる。
なぜサスケにこだわるのか、そう問われたナルトが「少なくともお前なんかより、アイツのことを兄弟だと思ってるからだ」と答えるのは、イタチの心情を思うと苦しい。
まだ純粋なサスケは何色にでも染まる、もしサスケが木葉を襲撃するようなことがあれば里とサスケどちらを取るのかと問われれば、両方と答える。
一族かサスケか、苦しい選択を迫られ弟を救ったイタチからしてみれば考えられない答えだっただろう。
「バカのままじゃ…この世界生き辛いのが現実だ」そう言われたナルトが、

「賢いってのがそういうことなら…オレは一生バカでいい…一人でももっとスゲー術あみ出して、サスケはぜってー助ける!」

「まっすぐ自分の言葉は曲げねぇ。それがオレの忍道だ!」

そう言って、歌い始めたナルトがあまりにも眩しくて。
ああ、彼はどうしてこんなにかっこいいのか。ヒーローだ。光のヒーローだ…とまた号泣。笑
イタチの死とサスケの絶望で砕かれた心に、ナルトの希望の光がもたらされた…
ナルトの光に、強さに、執着に、私自身救われました。


ラストはみんなで歌うので、涙の余韻も笑顔に変わります。
ナルトな広大くんとサスケな流司くんで拳を付きあわせたり笑い合ったりしているのを見るとホッとする。
舞台が好きな理由はここでもある。どんなに辛い運命を背負った役でも、死んでしまったキャラクターでも、カーテンコールでは生きてる!笑
広大くんが噛んでしまうと、流司くんが刀抜いていて笑いました。

Wコールで出てきてくれた広大くんが挨拶をしていると、後ろをささっと走り去っていくいたずらっこなきたむーや、それを真似しようとして転んだ(フリ)君沢さんなど、
カンパニーも賑やかそうで、ナルトを盛り上げていってくれそうでうれしいです。

そういえば、隣に座っていたお父さんとお子様らしき方々が、サスケの刀の抜き方(背中の鞘に合わせた動き)が凄い!ってマネしてて微笑ましかったなあ。

年齢層も幅広くて、ナルトがたくさんの人に愛されていると改めて実感できた舞台でした。
楽しかった!!

 

ミュージカル刀剣乱舞「三百年の子守唄」アイアシアター

 

3/19はアイアシアターで、千秋楽は配信で刀ミュを観ました!

一番の推しであるへし切長谷部がステでこれ以上ないという理想の長谷部であった今、私が刀ミュを観に行くことはあるのだろうかと思っていました。
しかし、今公演のキャスト発表があった時ににっかり青江が出ると聞いて思わず飛び上がりました。
長谷部の次を選べと言われたら青江と答える程度には、青江が大好きだ。
けれど、なんとなくステやミュで三次元化すること想定していませんでした。
更に、私の中の青江を好きという気持ちは長谷部を好きなのとは少し別で”うちの本丸の”青江が好きなのであって、他所の本丸の青江が好きなのではないということ。
にっかり青江という刀が背負う物語以上に、ゲームを進めていくうえでというか7面をクリアするうえで青江がどれだけ頼りになったか。うちの青江は最高だ…と、ゲームの画面に思いを馳せて…というか拗らせていました。

なんにせよ、うちの本丸の青江が一番!と思っていた。
とはいえ2.5次元も大好きな私がまったく三次元化を想像しないわけもなく、青江のかっこよさを表現するとしたら藤田玲くんかな~なんて勝手にキャスティングしていましたが。笑
しかし、青江の体格的に玲くんということはありえないし、ということは私の理想の青江はやはり三次元に存在しないのでは?と思っていました。

そんな私が聞いた第一報は友人からの電話。
「青江が出るって!」
「えっうそ!?誰!?」
「荒木だって!!」
「えええええええ!!行かなきゃ!!!」

今でこそ活動をなんでも追いかけるというスタンスではなくなったものの、
私が若手俳優のおっかけを始めた理由であり、「この世で一番美しいのは荒木」と長いこと拗らせている荒木くんが、にっかり青江。

うわっ!想像できる!!!

一番最初に思ったのはそれでした。
私が藤田玲くんを青江として想像したのは、セクシーさや意味深な台詞が似合うかどうか(あと眉毛濃い目が似合う笑)という基準だったのですが。

荒木くんだと言われて、そうきたか、と。
藤田玲くんの色気は妖しさを含め男のセクシーさ。
対する荒木くんは、どちらかというと女性的な色っぽさ。
オリジナルの青江となる声優さんの声が低く男らしいので男性らしさを重視していたけど、言われてみれば彼は脇差で細身のはずだし髪も長いしその路線も十分に有りだ。
とうらぶはステもミュもしっかりメイクしてくれるし、荒木くんの顔に青江のメイクはさぞ映えるだろうな、と。
それはそれは美しいに違いない。
微笑んで意味深な台詞を言うのも絶対に似合うし。
何より、演出が茅野さんということでそこにも絶対的な信頼がありました。
茅野さん演出の時の荒木くんは間違いなく綺麗だから。
ラストゲームの相本然り、鴉の寅吉然り、淋しいマグネットのトオル然り。
つまり、間違いなく美しい青江が見られる!

推しが推しを演じるというよくわからない現象に混乱しつつ、とりあえずオフィシャルの有料会員となり申し込んだ先行でありがたいことにチケットがご用意されて観に行くことができました。


『三百年の子守唄』


終わってみると、とても秀逸なタイトルだとわかる。

にっかり青江と大倶利伽羅が遠征に向かった先で、徳川家康となる赤子のいる家つまり松平家が時間遡行軍に襲われ家臣たちが皆死んでしまう。
生き残った赤子を家康として育てるために、二人を含め隊長の石切丸、物吉貞宗、蜻蛉切、千子村正が家臣の代わりとなり元の歴史を歩むというストーリー。

家臣たちの子孫は…などと、細かいことを気にすると刀剣乱舞の時間軸や世界線やタイムパラドックス的なことも同じことになってゲーム自体を否定することになりそうなのでやめます。

日頃、西軍贔屓!と言っている私ですが徳川家康という人はやはり凄い人です。
清濁併せ飲み、たくさんのことを乗り越え駆け抜け戦い生き残り、そして泰平の世をつくった、今に繋がる時代を築いた人。

子である信康が、心優しく戦国の世を生きるには辛い花を愛でる子として存在していましたが、では家康は何も犠牲にしなかったかというとそうではないと思う。
少なくとも、この作品での家康はそういう人だった。
自身も、親のいない悲しみの上で戦国の世を立派に生きぬいた。

最後、家康が眠りにつく時に
家康様が築いた泰平の世は、そこかしこから子守歌が聴こえてくる。そんな素晴らしい世が三百年も続いた。
と、物吉くんが言うのを聞いてじんとした。
ああ、三百年(みほとせ)の子守歌とはそういう意味だったのかと。

命短い人と違い、全てを見てきた刀剣だからこその刀剣乱舞らしいストーリーだったと思います。

特に印象に残ったのは、物吉貞宗役の横田龍儀くん。
初舞台だったということで、確かに周りのキャストと比べてしまうと技術的に見劣りしてしまう部分はあったように見える。
けれど、とにかく明るく可愛くて、本当に幸運を運んできてくれる、そう思える明るいオーラを持っていた。
配信で観ると顔がアップで映される。最後に家康様を支えながら涙ぐみ子守唄を歌い、にっかり青江に「笑いなよ」と言われた時の表情なんて本当に素敵だった。
主を物凄く慕っていながら刀としてやるべきこと果たすべき使命はわきまえている、そんな切なさが彼の表情に表れている気がした。
その可愛らしさの裏にある強さが垣間見える、そんな物吉くんでした。
二部での石切丸さんとの曲は、キュートさが満開すぎて審神者の私が桜を舞わせてしまいそうだった。

倶利伽羅役の財木くんは、どの角度から見ても大倶利伽羅なのですごいなと。
本人は可愛らしい感じの顔立ちなのでずっとクールな表情でいるのはもったいないと思うけど、台詞が多くない分立ち振る舞いなどでキャラらしさを出すのは大変だったと思う。大倶利伽羅の不器用さ、優しさが見える役作りだった。 
彼に関する脚本は安直すぎるような気もしたけど、あくまでサポート的な位置だからあんまり掘り下げるわけにもいかなかったのかな。
二部の伽羅ちゃんはジャ〇ーズでしたね。かっこよすぎです。

spiさんと言えばRENTのベニー!と、言いながらサングラス掛けてブルドッグのマネしたい気分ですが、今回は蜻蛉切さん。
蜻蛉切はあの本多忠勝の槍。その辺の細マッチョな俳優がやってもハマらない役だと思います。spiさんの身体の厚みは見事でした。
自身が忠勝様の代わりになるなど、と葛藤していましたが物吉くんに諭されて戦場に駆けていく姿、良かった。蜻蛉切さんが根明でよかった。
槍の訓練をしながら赤子を抱えるspi蜻蛉切を見ていると「どうしたんだ~ベニー人が変わった~な~♪」と歌いたい気持ちに。笑
二部ではジャス〇ィン・ビー〇ーのライブが始まったかと思いました。
隣に青江と村正をはべらせていると、まるでタイのショーパブ。

もっくんが村正と聞いた時は、体格の違いにどうなるんだろう?と思ったもののとてもハマっていました。
登場したばかりの村正というキャラクターは大変だったと思う。
体をくねらせしゃなりしゃなりと歩く姿、元の主はマリリン・モンローなのでは?
自身が妖刀であることから徳川家と距離を置く優しさや、最終的にはみんなの輪に入りたがる可愛さ、青江と二人になるといつもの調子が出ないところなど見どころ満載でした。歌はうまいし声量もあるし顔は綺麗だし、こんなうさぎのしっぽをつけてもおかしくない30代男性がいていいのだろうか。
二部はスレイジーでした。

にっかり青江が荒木くんで、荒木くんがにっかり青江で…!?と、脳内が混乱しましたが、荒木くんの青江はとても良かったです。
どうなるのかな、解釈違いにならないかな、と思っていたけど想像以上にハマってたいたし違和感もなかった。荒木くんだからこそなんとなくどんな青江か想像ついてしまう部分があったけど、それよりもずっと上を行く青江でした。
美しくて凛としていて、低く腰を落とす殺陣が機動高そうで脇差らしくて。長い髪を撫でつける仕草がうつくしくて。
少し遠くからみんなを眺めているところは、荒木くんに似ています。
初めての赤子に、その感触に戸惑う姿を見ると、青江が生きていると実感できました。生きている青江はこんな風に喋って、こんなふうな距離で他の刀や人々と接している。
石切丸さんに何度も無視されてしまうのでどうしてこんなに可哀想なんだと思っていたけど、それは青江自身が石切丸さんの抱えているものに気付いていて、
石切丸もまたそれに気付いていたから避けていて、そしてさらに青江もそんな石切丸さんを理解して無理に話をしようとすることもなかった、と。
石切丸さんと青江について深く考えたことがなかったので、この本丸の二人を見てなるほどと思いました。互いに思慮深すぎて、でもそんな不器用さが”心を持ってしまった刀"という感じで、刀剣乱舞っぽくて面白かったです。
「一緒に笑うくらいはできる」というのも、青江らしい一歩引いた考え方でよかった。というより、この作品のおかげで、青江という刀をよく知ることができた。
太刀ではなく、かといって小さな脇差でもない微妙に大人な雰囲気は刀ステの薬研の立ち位置に近いのかもしれない。
二部の青江は背中がもう…何も言えません。肩が片方だけ露出する造りだったので、(チャームポイントとはいえ)広すぎる肩幅が強調されず華奢に見えて良かったです。全力で大きく踊る姿は、ああ荒木さんだなと。

最後に、石切丸さん。
崎山くんの石切丸を見るのは、生では初めてだけどトライアル公演の配信を一度だけ見ています。その時はあらすじ的にもこれといって深く印象に残ることもなかった。
なので、今回はとてもびっくりしました。
徳川家康の家臣を演じることになった時、石切丸は自分から”服部半蔵”になると言った。半蔵と言えば忍者なので、忍者を機動の遅い石切丸さんが…という単なる笑えるシーンなのだと思っていた。
しかし、実際は服部半蔵が信康の介錯を命じられる立場にあると知っていて、自身から名乗り出ていた。
家康を育て支え、その子である信康の誕生と成長を見守っていくのに、殺さなくてはならないという辛い任を自ら買って出たということだ。
戦刀ではなく、人と深く関わりながら存在してきた優しい石切丸だからこその行動であり、この本丸の石切丸だからこその決断だと思う。

崎山くんは、初演から座長を務めてきた流司くんから引き継いでの座長。
プレッシャーが無いはずも無く、大変だっただろうと思う。
そんな崎山くんの背負うものが、石切丸のそれとリンクしていた。責任感と覚悟が立っているだけでも伝わってきて、やわらかい雰囲気なのにどこかピリピリと張りつめていた。とても素晴らしかった。
他の誰が演じてもこうはならなかっただろう。彼でなければ演じることのできない石切丸になっていた。
本当にお疲れ様でした。

最後に、ライビュが先行一般ともにチケットを取ることができなかったけどパセラでビールを飲みながら観るのもまた楽しかったです。
刀ミュの次の舞台はどこでしょうか。

3/16 天井棧敷~万有引力『身毒丸』世田谷パブリックシアター

 

私がこの作品の上演を知ったのは、1月に観た幸福な職場の時。
どさりと大量に渡されたチラシ。少し減らして帰ろうと興味のあるものだけ持ち帰ることにした。
その中に『身毒丸』のチラシがあった。禍々しくも綺麗な絵と共に書かれていた”見世物オペラ”の文字。
その時私は「へぇ~身毒丸ってオペラバージョンもあるんだ~」と思った。

恥ずかしながら、こちらがオリジナルだと言うことを私は知らなかった。それどころか、蜷川幸雄さんのオリジナル作品とさえ思っていた。
私は舞台好きだけど海外ミュージカルが主で、ストレートであっても海外の翻訳作品が多い。特に一般的に名を知られている日本の演出家の作品はあまり観たことがない。
蜷川さんは一度、あとはつかこうへいさんの作品を二度観たことがある程度。
観たことがなければ代表作さえよく知らない。
別に好まないというわけではなく、なんとなく観知る機会がないだけ。
本気で観たければチケットを取っているはずで、当の本気がなかなかこないのだ。

そして、その本気が今回だった。

よく知りもしないのにどうにも気になって仕方なくなり、持ち帰ったチラシを見ながらすぐにチケットを取った。
こういう時は巡り合わせがあるのか、何かに突き動かされたようにすぐさま行動できてしまうから不思議だ。

当日、会場に着くとキャンセル待ちの列、客席には立ち見の観客。
ステージには、開演前からうろうろとする何者かたち。
始まると暗闇から浮かび上がる舞台「わたしの産みの母には顔がなかったのです!」途端に強く鳴りだす楽器に、手毬に、ソプラノボイスに読経に、混沌とした板の上。
凄い作品を観に来てしまったと思った。

正直なところ、歌詞は半分以上聴き取れていない。
それどころかあちこち飛ぶ場面についていくのに必死で、内容の理解もきっとほぼできてないだろう。
しんとくの家族の話を描かれているかと思えば急に巨大な頭の兄妹の話がやってくる。なんでも消せる消しゴムの話に肺病の女、柳田國男と地下へ行ける穴。めまぐるしく変わっていく場面と、詳細が明かされない謎の登場人物たちについていくのに必死だ。
この感覚は岩松了さんの『国民傘』を観た時に似ている。
けれどもっと強く、不条理劇というよりは、まるで起きながらに夢を見ているような繋がっていないようで繋がっているような奇妙な感覚。
「夢か現か」まさにそんな気分だった。
理解なんてできてないくせに、どうにも強く惹かれてしまうのだから困ったものだ。
時々出会ってしまう、こういう作品に。


まず、そのセットに圧倒される。
三段に組まれた高く大きなセット。真ん中の飛び出した部分の端にも小さな舞台。
背景を稼働する禍々しい絵はあまりに気になってオペラグラスで覗いてしまった。
そして、その舞台上にたくさんの出演者。役者に語り手歌い手踊り手奏者。
この作品の上演を知っていた人はどれだけいるのだろう?そりゃあもちろん立ち見客までいるほどなのだからたくさんの人が知っていただろうけど、生演奏に生歌に踊り暴れ狂う人のエネルギー。耳と目がいくつあっても足りない豪華さだった。
まず、それだけで物凄い価値がある。

それから音楽。
呪術的ロックと称された、ロック×オペラ×説教節が融合された曲はあまりにも衝撃だった。その幅の広さゆえに使用する楽器の多さから、再演することが難しかったというのも頷ける。
うねるような迫力ある音に、弦楽器の響き、合わさるオペラ歌唱。
家族合わせゲームの歌は童謡のようでもありつつどうにも不気味だなと感じていたのだけど、それは意図的な不安定な音程と変拍子のせいだろうか。
昨今ではロック×ミュージカルも珍しいものではないけれど、今から37年前の日本!でこんな作品が作られていたのだと思うとなんだか信じられない。なんでみんなもっとこの作品はすごいと教えてくれないんだ。どうしてシーザーさんの音楽がかっこいいことを教えてくれないんだ!
これは現代にあって、まったく色褪せることのない新しい刺激だ。

物語に関しては、前述の通りほとんど理解できていない。
日本生まれ日本育ちな生粋の日本人であるにも関わらず、日本語とはこんなに難しいものなのかと痛感した。
同時に、なんて美しいのだろうと。
七五調の耳馴染みの良さに、この国に根付いてきた歴史が私の血にも流れているのだと感じた。
最近は海外ミューのために英語の勉強ばかりしていたけど、改めて日本語の大切さを忘れてはいけないと思う。

しんとくの父は、見世物小屋で継母となる蛇娘の撫子を買う。
見世物小屋とはなんだろうか?
私が物心ついた時には、聞いたことのない言葉であり触れたことのない文化になっていた。誰かがそう私に教えたわけではない、そういう空気ができていたから。
大人になってから断片的に得た知識の中で、触れてはいけないもの口にしてはいけないもの気味が悪くて見て見ぬ振りをしなくてはいけないもの、そんな気がしていた。
しかし、この舞台ではそんな風には見えなかった。
確かに猥雑で不気味ではあったけれど、それはそれで生き生きとしているようにさえ見えたからだ。
舞台にしろ映画にしろ、作者の視点がそのまま形となると思っている。
調べてみると、寺山さんは見世物小屋復権を掲げていたとのことで、妙に納得した。寺山さんは、見世物小屋の存在を蓋をするもの、排除すべきものとは思っていなかったのだ。

舞台は作者の視点、と思っているからこそ感じたのは、
ただ"普通"に母を母として慕っている人には絶対に書けない話だ、ということ。
この作品には産みの母は結局出てこないし、最後に出てくる母親たちにも顔はない。
それはもしかしたら、寺山さんの中で産み育ての”普通”の母というものが概念でしかないのかもしれないと考えたりもした。
女である私には母=異性という感覚がないことや、私の母も必要以上に女を出さない人なので母=女という感覚も強くない。
しかし、逆に言えば女だからこそ撫子の心がわかってしまうような気がした。

撫子は母であるが女であり、女であるから母性も持っている。
実子であるせんさくを跡取りにするためにしんとくを排除しようとするのはせんさくの母としての気持ち。母性がそうさせるのだ。
しんとくは彼女にとって実子を阻む邪魔な存在だが、産みの母と間違われ縋りつかれて一瞬でも母の振りをしたのもまた母性ゆえではないだろうか。

しんとくが子とも男ともつかぬ存在なら、それはどちらでもあるということ。
子どもらしくただ母を慕うしんとくの姿で甘え縋られては簡単に振りほどけないと思うのだ。

けれど、どちらでもあるということはまた男でもあるということ。
その時の撫子は女だ。
しかし、彼等には”家”がありその家の中で二人は母と子でいなくてはならない。
撫子は継母であり所詮産みの母にはなれない。
母でなければ女でしかない。
家の中では女としてしんとく(子)を愛すわけにはいかない。愛せなければ憎むしかない。因習としがらみ全てが憎しみとなり、その憎しみは呪いとなる。

卒塔婆に釘を打ちつける撫子と、もがき苦しむしんとくの場面はもう圧巻でした。
藁人形を使うのも怖いけれど、しんとくの戒名が書かれた卒塔婆に釘を打つ方がよっぽど陰湿でおそろしくて悲しい。
憎しみかそれとも悲しみか、黒髪と朱襦袢を振り乱す撫子の姿は狂気そのもの。
そして、舞台上には彼ら二人だけではなく、しんとくと撫子がたくさんいるのだ。
どの撫子も釘を打ち、どのしんとくも苦しみもがく。
情念が具現化したような場面に、ただただ圧倒されるしかない。

終わらぬ家族合わせ、独り占めした母札、箒で掃き捨てられた家。
その結末。

「おかあさんもういちどぼくをにんしんしてください!」

その言葉はまるで愛の告白のようでもあり、女を呪う言葉にも聞こえた。
だって、もう一度妊娠することなどできるわけがないのだから。
できないと理解っていて言うのだ。
そもそも”もう一度”と言っているが、撫子はしんとくを妊娠したことがなければ産んでもいない。
盲目のしんとくは誰を見ているのか、もう狂っているのか。

「もういちど、もうにど、もうさんど、できることならお前を産みたい。おまえをにんしんしてやりたい」

それに応える撫子の言葉もまた、愛しい者への優しい返事のようでもあり、呪いをそっくりそのまま返す言葉のようでもある。

二人は最後にようやく抱き合うことができるが、撫子は一瞬で白髪になりしんとくは無数の”母”に食われてしまう。
壮絶な終わりを迎える物語だった。

 

これが、ただの母と息子の禁断の愛を描いたラブストーリーならもっと簡単に感想も出てきただろうが感想らしい感想は浮かんでこない。
継母と息子の決して女々しくないが陰湿な物語だ。
強い情念に満ち、哀れでもあり滑稽でもあり、けれど共感も覚えてしまう。
それは彼らが妖でも獣でも鬼でもなく、人間だからなのだろうと思う。狂いながらも愛し悲しみ憎むその心はまさしく人間のものだった。

しんとくが迷い込んだ地獄。
それは、あまり現実場面の混沌と変わりないように見えた。地獄へ通じる穴も、ゴム消しも、病気も。
この世は地獄と相違ないのかもしれない。だからどうにかして幸せのひとつでも手繰り寄せながら必死に生きていくしかない。

そうして手繰り寄せたのが、この作品だった。

37年の時を経ての再演。私にとっては、とてつもなく新しい刺激だった。

『スーツの男たち』アトリエファンファーレ高円寺

 

ラストの、ボビーがマックスの下ろされた前髪を撫でつけ後ろに流そうとする仕草。
たったそれだけのことが、どうしても哀しかった。

『スーツの男たち』

たった80席の狭い劇場は、最前列に座ると爪先がステージに当たる。
当のステージはほんの段差程度しかない高さ。
役者が椅子に座ればまるでテーブル越しに向かい合っているかと思うほどに近い。
そしてそこは、幕が上がると同時にニューヨークのグランドセントラル駅になる。
ざわついた構内で、イタリアンマフィアであるマックスとボビーはある男を待ち伏せしていた。二人は、ボスからの指令に当てはまる男を殺すために待ち伏せしていたのだ。
殺しの前の緊張からお喋りのボビーと、何やらずっと書き物をしているマックス。そのためなのか、背景のセットはマックスが持つメモ帳になっている。

テンポの良い会話が続くうちに、二人がどのような人物なのかわかってくる。
マックスは短大卒で頭が回るタイプのスマートな男だ。艶があるグレーのスリーピース・スーツはしっかりとアイロンが掛かっていて清潔感があり、彼自身の性格が表れている。
対してボビーは、お喋りで頭がよくない。しかし、仲間内のことで告げ口などはしない義理堅いところもある。大食いで店員に対して怒鳴り、フケが肩の周りに落ちているような男。ボスの前では調子の良いことも言える。

そんな二人は、イタリアンマフィアで、殺し屋で、ビジネスパートナーで、幼馴染で、友達だ。
凸凹だからこそうまくいくというのはよくある話で、互いに苛立ちを抱えながらもうまくいっていた。

安西君演じるマックスは、まあそうだろうと言うほど安西君らしい雰囲気。彼自身が持つ清潔感はマックスにぴったりだ。
アフタートークになると急に安西君に戻って、ぽやっとした少年の柔らかさを残した雰囲気になってしまうのに、役に入ってキリッとしているとエリートですという顔になる。常に危ういマックスの情緒不安定さも合っている。そして、黒よりもネイビーよりもグレーのスーツがいっとう似合う。
おバカなボビーを演じる章平さんは、さすがの体格。スーツ越しにでもわかる胸板の厚さや太腿の逞しさ。
ブレーンがマックスで、実際殺しをしているのはボビーだという説得力がある(という褒め方もあれだけど)。筋肉フェチなので章平さんをこれだけ近くで見られるのは嬉しい。
普段は優しげで控えめな章平さんが、ボビーを演じると本当に人をイラつかせる程のバカになってしまうのだから役者は凄い。無双で正則を演じていた時とも違う種類のバカを演じ分けている。

物語は、90分の間ほぼこの二人の会話で進んでいく。
秀逸な脚本と、狭いステージの上を駅から車内からファミレス、ホテル、ボスの部屋とあちこちに変えてしまう演出、音響音楽や役者の表現力のおかげでまったく飽きない。
あっという間に、ラスト30分の緊張感がやってくる。

ボビーとマックスは、ニューヨークセントラル駅で誤って指令と違う男を殺してしまい、ボスに謝りに行くことに決めた。
一晩かけてボスの家があるバーモントに向かうが、その道中に彼らの『イタリアンマフィアで、殺し屋で、ビジネスパートナーで、幼馴染で、友達』という関係が浮き彫りになっていく。

ボビーはとにかく人をイラつかせる男だ、と私は思っている。
というのもボビーは、マックスがボスにどう報告するか、何を言うか決めなくてはと真剣に話そうとしているのにどのパンケーキを頼むかに夢中で報告のことなどすっかり忘れてしまうような男なのだ。
マックスがわかりやすく例え話をしようとしてテーブル上を駅に例え「俺たちは塩と胡椒だ」と言えば「俺はブラック(胡椒)は嫌だぜ!」と黒人を揶揄するように急にラップを歌いだす。一生懸命説明しようとしているマックスに「聞いてるよ」と言って爪を切りだす。
いいから人の話を聴け、真剣に聞け、落ち着け、黙ってろ!と、思わずにはいられなかった(笑)

しかし、逆に言えばボビーにとってもマックスは正反対すぎて苛立つ男なのだろう。私には理解できないけど(笑)
腹が減ったからパンケーキを食いたいのにそれを邪魔しようとする、難しい言葉を使ってくる。ボス曰く”学がない”ボビーにとってはなんというか、鼻につく部分があるのだろうと思う。

会話の中で感じることだけれど、彼等はおそらく互いに見下しているところがあるようだ。
マックスは、ごみ処理場で働いていたお前をあんなところから出してやったのは自分だと、ボビーを見下している。
ボビーは、常にアレコレ答えの出ない"ボビーにとっては"意味のないことを考えているマックスのことを見下している。
テンポの良い会話のなかで、互いにマウントを取り合っている。
マックスが、ボスの家に行くのをやめてUターンしようとした時の会話で「俺に逆らうな!」と言うと、ボビーは「逆らってるんじゃない、言ってやってるんだ」と返す。

これは安西君がアフタートークの時に言っていたことだけど、二人はお互いに主導権を奪い合いながらも同じ高さになる瞬間がありそれが面白いと。
それを聞いて、ストンと落ちてくるような感覚があった。二人は対照的だけどある部分では似た者同士で、そして長い付き合いゆえのある種の甘えもあるのだと。
その証拠にお互い”自分が上だ”と思っているかもしれないが、聞いているこっちからすればどんぐりの背比べというか同レベルで言い合っている瞬間もある。
バカバカしい言い合いがそれに当てはまる時もあれば、以前マックスが女と一夜明かした後に爆睡して、相手の女がマックスが心臓発作で死んだと勘違いし警察を呼んだ。起きて警察に囲まれて焦っているところを助けたのはボビーだった。ボビーが「俺が同じ状況でもお前は同じことしただろ?」と言うと「まあな」と、マックスはごく自然に返返してみせる。二人は間違いなく幼馴染で友達なのだ。
そんな姿を見ていると、彼らがただの幼馴染として過ごしてきた時代のことにも思いを馳せてしまう。

だからこそ、ラストが哀しいんだ。

ずっと書き物をしていたマックスだが、何を書いているのかは観客にもわからない。
それが明かされるのは、ボスの家の近くまで着いてひと眠りにと入ったホテルで。ボビーは、読むなと言われていたマックスのメモ帳の中身を見てしまった。
そこには、今まで彼等が殺してきた人やボビーのこと、もちろんマックスのこと、それからボスのことなどが書かれていた。マックスは、小説を書いてそれを出版する気でいたのだ。
そのことにボビーを腹を立てるが、マックスにはそうしなければならなかった理由がある。

マックスには、声が聞こえるのだと言う。
弱みに付け込んできた人の、殺してきた人の「殺したのは俺だ!」俺の手は血で汚れてる「血は洗えば落ちる!」。話の本質を捉えようとせず言葉を遮るボビーに、マックスは苛立ちながらも悲痛な表情で訴える。
頼むから聞いてくれと。その様子は、これまで張りつめていた糸が切れてしまったかのように見えた。
苛立ち、目を潤ませ、毎晩見る悪夢が本気で辛いのだと訴えた。だから、抜けたい。こんな生活をやめて普通に家庭を持ち屋根の修理費用とか些細なことに悩むそんな生活が欲しい。
今までのことを密かに告白することで、それが贖罪になるのではないかと。それ以外の手段がわからないのだと吐露する。
3/30ソワレの時には熱が入っていたのか、台詞が詰まるほど泣いていた。ボビーを見上げた時に頬を伝っていった涙にこちらも泣けてきそうだった。
しかし、彼の思いがボビーに通じたとは思えない。
そんなことよりも、マックスが小説の中でボビーの手を優雅で”女のようだ”と例えたことが腹立たしいようだった。

そして、ボスの家に辿り着いたところからラスト30分の緊張が始まる。
まだボスがいない部屋の中で調子にのってボス専用の椅子に座ったりするボビー。その後現れたボスが「椅子の位置が違う!」と銃を持ち出して大激怒。すぐに穏やかになるボスだが、マックスもボビーも完全に委縮してしまう。

張りつめた空気の中、ボスは部屋の近くに来ているキツネに目を留める。
キツネの強い仲間意識の話を他愛ないことのようにしているが、もちろんそれを他人事のようには聞けない。

何の報告に来たかと聞かれた二人は「指令通りの男には会わなかった」と事前の打ち合わせ通りのことを告げた。
しかし、ボスは知っていた。その時、例の男は駅に居てそれを彼らの仲間が目撃していた。どういうことなのかと問われ焦る二人。

「ボビーが違う男を刺したんです」

そう言ったのは、マックスだった。
驚嘆の表情でマックスを見るボビーと「お前が違う男を刺したのか」と詰め寄るボス。
一応は助け舟を出そうとしたマックスだったが、それをボスに止められたうえ「お前はニューヨークに帰った方が良い」と言われてしまい、思案するような表情を見せるもボビーを残し部屋を出ていく。

ボビーと二人きりになるとボスは、マックスには学があり俺やお前とは違うと言った。

それから、例え話を始めた。
ボスのお気に入りで高級な、イタリアから取り寄せたという高級エスプレッソカップ。
とても美しいそれをボビーに見せた後、わざと床に落とす。
割れてしまったエスプレッソカップ。
「これはなんだ?」
ボスの問いかけに「カップの欠片です」と答えたボビー。もうすでにカップではなく使えないそれをどうするかとさらに問われると「俺が接着剤で元に戻します!」と見当違いの返答をしてしまいボスを困らせる。笑えつつも緊張感は拭えない雰囲気だ。
もう一度、どうするか問われる。

「捨てます」

その答えに機嫌よく「そうだよ!」と穏やかな表情を見せたボスは、さらに懐から5セントで買ったという安物のエスプレッソカップを見せる。接着剤でくっつけた高級カップはどこかで漏れるかもしれない。けれどこれは安物だがちゃんとカップとして使える、と言った。

それから、再びキツネの話をする。キツネの子どもが人間に懐きその世界で生きようとすれば、母キツネに食われてしまうと。彼等は家族意識が強いのだと。
ボビーは、ハッとした表情をした。

「多分、俺ニューヨークに戻った方がいいですね」
「…多分な」

にっこりと笑うボス。
マックスの例え話はろくに聞きもせず理解しなかったくせに、どうして今だけ察しが良いんだよと泣きたくなった。

駅にて、まるで普通の青年のように私服姿で前髪を下ろしたマックス。大きな荷物を抱え辺りを伺うように視線を動かしている。
「誰だ」
後ろには、ボビーの姿があった。
ボビーが無事だったと知り、本気で安心した顔をするマックス。
お前は嘘をついたわけじゃなかったし、俺は無事だと言うボビーにマックスは問いかける。
俺は逃げた方がいいのか、行っていいのか、その方が安全なのか。逃げていいのか。

「俺はお前に聞いてる」

主導権を握ろうとしていたマックスが、初めてそれをボビーに委ねた瞬間だった。

「行っても行かなくても、安全と言う意味では変わらないよ」
ボビーの言葉を信じ背を向けたマックスだったが、後ろからナイフで刺されてしまった。
マックスは、ボビーからボスの”例え話”のことを聞いた。
「ボスはお前を高級カップだと言ってから、俺を安物のカップだと言った。高級カップの方を俺の前で割って見せた」
「お前はそれを俺を殺せと言ったと思ったのか? なんてことだ…」

事実、ボスはマックスを殺せなんて言っていない。
あくまでエスプレッソカップの、それからキツネの話をしてみせただけだ。ただそれだけのことだった。
決定的な台詞がほとんど排除され人間の想像力に委ねられたこの作品の、集大成がここに詰まっているようだった。
マックスは死の直前に、ボビーに告げる。

「お前に"話のネタ"を残していく」と。

それは、マックスが聞いている”声”のことだ。半笑いで脅しにさえ聞こえる言葉にボビーは怒り、再度ナイフで刺し、さらには腹を殴った。
動かなくなったマックスの前髪を、ボビーは殺した相手にするとは思えないような手つきで撫でつける。ボビーはその髪を手ですくって、オールバックに戻そうとしていた。それを見ていると、ボビーの手を優雅でまるで女の手だと褒めたマックスの気持ちがわかる。

自分に”声”なんて聞こえるはずがない、怖いわけがない。
しかし、立ち去ろうとした時。ボビーの耳には届いてしまった。
恐ろしい悲鳴が。

 

もし、ボスがボビーに「マックスを殺せ」とはっきり命じたのならマックスは「話しのネタを残していく」悲鳴が聞こえるはずだ、などと死に際に言わなかったのではないかと思う。
二人は、イタリアンマフィアで、殺し屋で、ビジネスパートナーで、幼馴染で、ちゃんと友達だった。
マウントを取り合いながらも、互いに認め合う部分を持った二人だった。

ボビーのナイフを操る手を優雅でまるで女だと褒めたマックス。
切り捨てられたも同然でありながらボスに向かってマックスを「いい奴なんです」と言ったボビー。
ボビーに至っては、マックスの方から言い出した辻褄合わせを無視してボビーが悪かったことにしようとしたわけだから怒って当然だ。それなのに、嘘の報告を言おうと提案したことも、小説のことも、ボビーは言わなかった。
マックスを「いい奴」だと認めているから。
マックスもボビーのことを友人として信頼していたからこそ「お前に聞いてる」と最後の選択を委ねたはずなんだ。
でも、だからこそマックスは自分の気持ちを他でもないボビーには理解してほしかったと死に際の一瞬に思ったのだろう。
自分が一生懸命にした報告の例え話を、ボビーが人を刺す時の手先の優雅さを、自分がどれだけ苦しんでいたのかを。一番に理解してほしかったのが相棒であり幼馴染であり友人のボビーだったのに、ボビーはそれを一切理解しなかった。
そのくせ、ボスの例え話は理解して自分を殺しに来た。

自分を刺したことよりも、"自分の話はわかろうともしなかったのに"という部分がどうしようもなく腹立たしくもあり悲しかったのではないだろうか。
そうして出た言葉があれで、最終的にボビーを苦しめることになる。

ラスト、ボビーの耳にも届いてしまった悲鳴について。
今まで聴こえなかったものがなぜ聴こえるようになってしまったのだろうか。
それは、他でもないマックスを刺殺してしまったから、だといいなと私は思っている。

組織とは良い部分もあれば怖い部分もある。今作はその怖い部分が浮き彫りにされた。
良くも悪くも本能的で単純なボビーは、ボスを神だと思っている。(I HOPの場面)
学の無さが想像力の欠如、視野の狭さだとは思いたくないがボビーは完全にそう考えている。
対して、マックスはボスを神だなんて思っていない。
この違いが、二人の罪に対する意識の違い。
ボビーからしてみたらボスの指令通りに人を殺すことは、神のお告げに従うことを同じなのだから人殺しは罪ではない。
マックスにとってはボスはただの人間でしかないし、自分の犯したことは法的にも道徳的にも罪である。
だからボビーは、任務を失敗したことで始終ボス(神)からの仕打ちに怯えている。
マックスは任務失敗に関してボスに何をされるか、あまり心配していない。彼はそれよりも、自分の罪の重さと所在、そして死に怯えている。
ボビーには罪の意識がないのだからいくら弱者から搾取しようと声を聴くことはなかった。だからどんなに、マックスが必死に声のことを訴えたところで理解できるはずもない。
けれどそれが、マックスを殺したことで声が、悲鳴が聴こえるようになってしまった。

それは、ボビーにとってマックスの存在が、マックスの命が、自分が信じる神に匹敵するほど重みのあるものだったと私は思いたい。

マフィアはまるで新興宗教のようだ。
安西君はついこの間まで『幸福な職場』でまさに幸福な良い組織のトップとしてその素晴らしさを教えてくれていた。
今回はその逆。
マフィアというものが本来どういうものかはよくわからないが、彼らにとっては学歴も必要なければマックスのような考えを持つ人間は排除すべき者。ボビーはその方針に忠実に、いらない人間を消しただけ。けれどそれは、世間的、法的に見れば殺人であって罪であり、罰せられるべきこと。それがわからなくなってしまっていることが問題だ。
羽場さん演じたボスは非常に恐ろしい。一見コミカルにも見える一生懸命にボビーに説明するボスと、お馬鹿なボビーのやりとり。
しかし、そんなボスは人の指を潰しキン〇マを磔にし人を殺すことだって簡単にできてしまう人。一般的に考えればとんでもない人を父と慕いその指令を全うすることの恐ろしさ。まさに飴と鞭を使い分けるその表情は不気味で恐ろしい。
羽場さんご本人はテレビでもよくお見かけするベテランさんなのに気取らず、アフトでも凄く周りを気遣う素敵な人でした。

舞台背景がマックスのメモ帳になっていた。洒落ているなとしか思っていなかった。
ラストの駅でのシーン。そのメモ帳には

「I would like to live.」

と映し出されていた。
マックスは形としては小説を書いていたけれど、そのメモ帳には彼の「生きたい」という願いが書かれていたのだ。

そしてそれは、ボビーに刺されたと同時に一瞬で消えた。

ボビーは、まるで善良な市民のような私服姿で目を閉じるマックスの下ろされた前髪を、元に戻そうと後ろに流す。
彼は”ボーイスカウトのバッジ”を手に入れたけれど、それよりもマックスに同じマフィアとして相棒で居てほしかったと望んだのだろうか。

そうであってほしい。

そうであったとしても、どちらの願いももう叶わないのだけれど。

スーツを脱げば殺されるマフィアの世界、そんなスーツの男たちの物語。

 

3/8「舞台『弱虫ペダル』新インターハイ篇~スタートライン~」TDCホール

 

とうとう、ペダステデビューをしました。


余計な理屈関係なく、

とにかく面白い!!!

私はアニメ1~10話と、今期放送しているぶんと、あとペダステが過去何度か放送されていたのを観た分でしか弱虫ペダルについて知らない。
でも、とにかく、もうとにかく面白い!!!

元々、ペダステ初演をDVDで観た時に「なんだこの面白い舞台は!?」と物凄く驚いた。
それでも、どうしても推しが出演している舞台や海外ミューなどが優先されてしまいなかなか会場へ足を運ぶまでに至らず。
今作では和田君が今泉君を演じるということで観に行くきっかけができたなと思った。そして、前作が無料配信されていたので予習と思って見てみた。
それがもうあまりにあまりに熱くて、テニミュやハイステを観るのとはまた違うよくわからない感情が込み上げてきてとにかく泣いた。
私はこれを観に行くんだと思うと堪らなくて、溜めていたアニメも見て、楽しみのボルテージがMAXになったところでTDCホールへ向かった。

やっぱり、面白かった。

とにかく、動く、動く!体力勝負とはまさにこのこと。
必死に動いて、息を切らして、ペダルを回している。そんな彼等を見ていると、どの学校も関係なく頑張れって応援してしまう。

 

前半の、1000km合宿。
インハイメンバーを決める争いをする手嶋と古賀。
前作までメカニックでありつつ何かあることを匂わせていた古賀は、選手になると急に雰囲気を変える。
そして、実はメンバーを決めたと言うのは嘘、決まっていないのは「俺だ」と言った手嶋。
努力が天才に勝つ、そう信じる。
これは、少年漫画の永遠のテーマなんだなと思った。(ナルトとネジを思い出しつつ)
現実はどうあれ、努力が才能に勝る瞬間というのは感動的だ。
凡人である手嶋と、天才である古賀。間違えてはいけないのは、努力しているのは手嶋だけではなく古賀も同じだということ。同じ努力家ならば天才が勝って然るべきだけど、それでも手嶋が勝ったことに「なんで?」と思わせない程の熱量。
古賀はホープで期待され、でも凡人の自分は期待されない古賀が羨ましいと感じていた手嶋さんの
「頑張らないと期待なんかされない!!」
という言葉にグっと込み上げるものがあった。
脚が動いてるのが不思議なくらいだ、そんなギリギリの手嶋を表現する鯨井君の熱さ。
あれはもう前作の映像を観た時にも感じたけど、本当に今にも倒れちゃうんじゃないかってくらい必死にペダルを回してて、応援せずにはいられない。

そんな手嶋には、もちろん青八木もいる。
決着がつく時、できたら応援してほしいと控えめな手嶋。
そんな手嶋の走りを見ながら青八木が「お前以外の誰を応援するっていうんだ!!」と声を荒げた時に、涙腺は崩壊。あ~~チーム二人…
声や表情含めて八島君の青八木君とても良いです…

そして古賀も、過去の期待、怪我、金城さんへの信頼。
いろんなものを背負って走っている。結果は手嶋に負けてしまったけれど、980kmの男が三年かけて完走したんだ。
最後に「俺は怪我には詳しいんだ」と言った時には、私だけでなく周りみんなハンカチで顔を押えてた。わかる…ここで泣かなくてどこで泣くんだ。
なんて熱いんだ弱虫ペダル

熱いシーン以外にも、この合宿のために敢えて負荷をかける自転車に乗っている今泉鳴子の二人のやりとりが可愛かった。(うろおぼえ)
「なんやスカシ~そのダッサいホイール!こづかい落としたんか!」
「ああそうだ、別にこの合宿用に用意したとかそういうんじゃないからな」
「せやけどワイの方がダサイ~!ワイのホイール集合~(手招き)」
(やってくるホイール)
「ワイのは2キロや!」
「俺のは3キロだ」
「ワイのは4キロや!」

最終的に「80キロや!」「81キロ」ってなって相当重いことになってしまっていて、笑ったw
この二人は新キャストだけど、テンポもよくて聴き取りやすかった。

合宿が終わり、青八木と鏑木のシーン。
青八木が着替えている時に、秋元くんがロッカーになっているんだけどこういうキャストの使い方がペダステは面白いと思う。自販機とか(笑)
やりすぎなくて、笑いの引き際がしっかりしているから安心して笑えるし。
あと、パズルライダーの人がセット動かしながら見守ったり頷いてたりするのがたまらなく好き。

鏑木は、自身がオールラウンダーだと思い込んでいるけれど、本来の脚質はスプリンター。敢えて言わないでおこうという手嶋の言葉を守るものの、ちょっとアドバイスをしたい青八木は鏑木が好きなオレンジビーナのペットボトルの下にそっとメモを仕込んでアドバイス
おばかな鏑木はオランジビーナの神様からのアドバイスだと信じ込む。バカは可愛い。

そして、インターハイ

いやもう小鞠くんが凄い。
なんてできる子なんだ芝居も声も動作ひとつひとつも。小鞠役の天羽くんを思わず調べ事務所を見て納得。踊れる子の動きは本当に綺麗だし、安定感もある。その仕草だけで小鞠くんというキャラクターの形が見えてくる。ペダステはアニメより先に進んでいることもあって何人かのキャラクターには声優さんの声がついていない。つまり、2.5次元で、しかもアニメまで放送している人気作でありながら俳優側が最初にキャラの声をつくる。元がない中であれだけインパクトの強いキャラを押し出してくる天羽くん凄いです。小鞠くんがどんな子なのか、どう走るのか、早く見たい。

待ちに待ったインハイの会場は栃木。

会場につくと選手が「ぞろぞろぞろぞろ」自転車が「ずらずらずらずら」からの観光客が面白すぎて。
和田君と秋元君、パパと子どもになってて仲良しすぎるし(笑)
「お父さんソフトクリーム食べたい~!」「買うたろ!」
「宇都宮餃子食べたい~!」「おっちゃんが焼いとるな、買うたろ!」
りんたこでの話によれば、シャトナーさんが和田君と龍君に何かやってほしいと言うことでこうなったとか。「和田でいい」ということで関西弁。パパなりと龍坊可愛い。
「これが栃木かーーーい!」

向かうバスの中で、会場には報道陣がいると大はしゃぎの総北。
小野田「七三分けにした方がいいですかね?」
鳴子「ワイの関西弁変に思われへんかな?」
今泉「あああああああ!俺、声がらがらじゃないかな」
と、大騒ぎのバス内とツッコミを入れまくる手嶋さん。みんなリクライニングにされるところ笑ったw
今泉「リクライニングもどしまーす」
↑半分くらい和田
そして、やってくる寒咲さん「本当はもっとイケメンでもっといいこえ~~~~~♪です!苦肉の策です!」
これ大好きなので生で見れて嬉しい(笑)

総北は期待してバスを降りたものの、実際に取材されているのは箱学。
さすがは王者、キメポーズもお手の物。

インハイが始まると、ファーストリザルトを誰が獲るかの戦いに。
スプリンター対決。箱学からは銅橋、総北からは青八木と鏑木。

バカとは強いものなのだなと実感。
銅橋の獣のようなオーラにも怯まず挑む鏑木は強い。
そして、その場で的確な判断をし後輩に託した青八木も。
鏑木が自分はオールラウンダーだからと引っ込みそうになった場面でとっさにだしたオレンジビーナの神様の便箋(笑)
まさかこんなところでさっきの設定が生きてくるなんて…!
小野田を、総北をバカにした、銅橋なんて抜いてやれ~!と鏑木が頑張るものの、銅橋にも負けられない理由がある。

体のでかさ、その気性等ではみだし者扱いをされていた銅橋だが、泉田だけは「はみ出せ」と言ってくれた。
体格や持っている武器を使えと。泉田は、銅橋の個性を認めてくれた人。
そんな泉田さんに出されたオーダー。ファーストリザルトを獲ってこい、そう言われて銅橋には獲ってくる以外の選択肢なんてない!
私はこういう関係性に弱い。この人!と決めた人についていく。強い信頼の元に、その人の言葉の通りに動きたい。その人のために働きたい、働きを見せたい。ある意味で主従のような二人だと思う。

スポーツ漫画全般に言えることだけど、主人公校から見れば敵校でもその学校にはその子たちだけのドラマがあるんだよね。
こういう信頼する先輩の為(小野田や古賀とかも)、親友のため(T2とか)、みんな自分以外の大切なものを背負って戦ってる。

小野田君がインハイが始まる前に自分のゼッケン1番の重みにプレッシャーを感じていた。
それは当然で、去年の優勝は三年生も含めた全員のもの。しかし、小野田くんは自分一人で”1番”を背負う気分になってしまい震えていた。
それを支えてくれるのはやっぱり仲間で、みんなで、仲間がいるからこそ背負うものの重み自体は増していくけど、仲間がいるからみんなで持てる。

あ~~~仲間っていいな…なんて青春なんだろう…

まだその”みんな”をいまいち理解しきれていなかった鏑木君も、銅橋との勝負に僅差で負けたことでその重みを知る。
親友でインハイメンバーになれなかった段竹や、最後のインハイになる三年の古賀、インハイメンバーになることを競った杉元。
自分はその三人よりも強いから彼らを差し置いてインハイに出たのに、負けてしまった。
だから顔向けできない、そう思っている鏑木に三人は手を差し出してハイタッチしてくれる。

どうして、と思ってしまう鏑木のその感情こそが成長だな…と思うとまた感動して涙が。
彼自身元々チームをおろそかにする子ではないけれど、この辺はまだ一年生なんだなと思った。可愛い子です。
その後歌う時に、拳を上げられず気まずそうに下を向いていたけど、最後はみんなと一緒に力強く腕を振り上げていたり。
最初はどうなるかと思った鏑木君だけど、良い子でよかった。総北みんな良い子だ。総北以外もいい子だ…(涙)

まだまだインハイは始まったばかり。
良いものを観た。次も絶対にいくぞ!!
笑いと感動のバランスが本当に絶妙で、基本的にはストレートのお芝居だけどエンタメ性にも富んでいて観ていて飽きない。

カテコの「ひめのくるくるかたおもい」の時の醍醐くんが客席に向かって
「準備はいいですか~?って言ったら、ミュージックスタート!って言ってください」
と言ったので「え?スタートしちゃっていいの?笑」と思っていたら他の面子からツッコミを受けていたので安心した(笑)

醍醐くんは本当に小野田君みたいにぽわ~っとした子で可愛い。

それぞれの学校でアレコレ仕込んで小ネタをやるものだから、和田君が耐え切れずツッコミ。
和田君の「色々仕込んでくるなあ!」に対し、とんちゃんが横からひょこっと「大丈夫?何もやらなくていいの?」と余計なひと言。
「いいの?いいの?」としつこいとんちゃんに、鯨井君が便乗。
「本当にいいのか?ほら、練習してただろアレ」と言い始めて、本当に何もなくて困惑している和田君に客席も拍手して便乗ww
結局のところ何もせず終わった後「地獄みたいな先輩ばっかりや!!」と叫んだ和田君に「ごめんね」と言ったとんちゃんは、本当に葦木場くんっぽいなと(笑)
和田君は、きっと自分はツッコミキャラだと思ってるけど本当はいじられキャラだよなあ…本人はそう思ってないだろうけどってところが可愛いです。

ひめくるを踊る直前、泉田役の河原田くんが何かを置いていたのでなんだろう?と思っていたら終わった後、まつげが汗で取れてしまったので、置いたと(笑)
すかさず和田君が「片まつげくん」と呼んで「誰が片まつげくんだ!」とツッコミ。

和気藹々としていて、けれど締めるところは締まっているとても良いカンパニーだったと思う。

ペダステを観ていると、演劇って面白いな!と感じる。
舞台というものの可能性はまだまだ無限だ。
本来なら存在していないものが、舞台の上には見えてくる。
自転車が見える、自販機が見える、ロッカーが見える、トイレが見える。

こういう演劇が好きだ。