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Open Sesame!

日々の観劇の感想や感じたこと

3/16 天井棧敷~万有引力『身毒丸』世田谷パブリックシアター

 

私がこの作品の上演を知ったのは、1月に観た幸福な職場の時。
どさりと大量に渡されたチラシ。少し減らして帰ろうと興味のあるものだけ持ち帰ることにした。
その中に『身毒丸』のチラシがあった。禍々しくも綺麗な絵と共に書かれていた”見世物オペラ”の文字。
その時私は「へぇ~身毒丸ってオペラバージョンもあるんだ~」と思った。

恥ずかしながら、こちらがオリジナルだと言うことを私は知らなかった。それどころか、蜷川幸雄さんのオリジナル作品とさえ思っていた。
私は舞台好きだけど海外ミュージカルが主で、ストレートであっても海外の翻訳作品が多い。特に一般的に名を知られている日本の演出家の作品はあまり観たことがない。
蜷川さんは一度、あとはつかこうへいさんの作品を二度観たことがある程度。
観たことがなければ代表作さえよく知らない。
別に好まないというわけではなく、なんとなく観知る機会がないだけ。
本気で観たければチケットを取っているはずで、当の本気がなかなかこないのだ。

そして、その本気が今回だった。

よく知りもしないのにどうにも気になって仕方なくなり、持ち帰ったチラシを見ながらすぐにチケットを取った。
こういう時は巡り合わせがあるのか、何かに突き動かされたようにすぐさま行動できてしまうから不思議だ。

当日、会場に着くとキャンセル待ちの列、客席には立ち見の観客。
ステージには、開演前からうろうろとする何者かたち。
始まると暗闇から浮かび上がる舞台「わたしの産みの母には顔がなかったのです!」途端に強く鳴りだす楽器に、手毬に、ソプラノボイスに読経に、混沌とした板の上。
凄い作品を観に来てしまったと思った。

正直なところ、歌詞は半分以上聴き取れていない。
それどころかあちこち飛ぶ場面についていくのに必死で、内容の理解もきっとほぼできてないだろう。
しんとくの家族の話を描かれているかと思えば急に巨大な頭の兄妹の話がやってくる。なんでも消せる消しゴムの話に肺病の女、柳田國男と地下へ行ける穴。めまぐるしく変わっていく場面と、詳細が明かされない謎の登場人物たちについていくのに必死だ。
この感覚は岩松了さんの『国民傘』を観た時に似ている。
けれどもっと強く、不条理劇というよりは、まるで起きながらに夢を見ているような繋がっていないようで繋がっているような奇妙な感覚。
「夢か現か」まさにそんな気分だった。
理解なんてできてないくせに、どうにも強く惹かれてしまうのだから困ったものだ。
時々出会ってしまう、こういう作品に。


まず、そのセットに圧倒される。
三段に組まれた高く大きなセット。真ん中の飛び出した部分の端にも小さな舞台。
背景を稼働する禍々しい絵はあまりに気になってオペラグラスで覗いてしまった。
そして、その舞台上にたくさんの出演者。役者に語り手歌い手踊り手奏者。
この作品の上演を知っていた人はどれだけいるのだろう?そりゃあもちろん立ち見客までいるほどなのだからたくさんの人が知っていただろうけど、生演奏に生歌に踊り暴れ狂う人のエネルギー。耳と目がいくつあっても足りない豪華さだった。
まず、それだけで物凄い価値がある。

それから音楽。
呪術的ロックと称された、ロック×オペラ×説教節が融合された曲はあまりにも衝撃だった。その幅の広さゆえに使用する楽器の多さから、再演することが難しかったというのも頷ける。
うねるような迫力ある音に、弦楽器の響き、合わさるオペラ歌唱。
家族合わせゲームの歌は童謡のようでもありつつどうにも不気味だなと感じていたのだけど、それは意図的な不安定な音程と変拍子のせいだろうか。
昨今ではロック×ミュージカルも珍しいものではないけれど、今から37年前の日本!でこんな作品が作られていたのだと思うとなんだか信じられない。なんでみんなもっとこの作品はすごいと教えてくれないんだ。どうしてシーザーさんの音楽がかっこいいことを教えてくれないんだ!
これは現代にあって、まったく色褪せることのない新しい刺激だ。

物語に関しては、前述の通りほとんど理解できていない。
日本生まれ日本育ちな生粋の日本人であるにも関わらず、日本語とはこんなに難しいものなのかと痛感した。
同時に、なんて美しいのだろうと。
七五調の耳馴染みの良さに、この国に根付いてきた歴史が私の血にも流れているのだと感じた。
最近は海外ミューのために英語の勉強ばかりしていたけど、改めて日本語の大切さを忘れてはいけないと思う。

しんとくの父は、見世物小屋で継母となる蛇娘の撫子を買う。
見世物小屋とはなんだろうか?
私が物心ついた時には、聞いたことのない言葉であり触れたことのない文化になっていた。誰かがそう私に教えたわけではない、そういう空気ができていたから。
大人になってから断片的に得た知識の中で、触れてはいけないもの口にしてはいけないもの気味が悪くて見て見ぬ振りをしなくてはいけないもの、そんな気がしていた。
しかし、この舞台ではそんな風には見えなかった。
確かに猥雑で不気味ではあったけれど、それはそれで生き生きとしているようにさえ見えたからだ。
舞台にしろ映画にしろ、作者の視点がそのまま形となると思っている。
調べてみると、寺山さんは見世物小屋復権を掲げていたとのことで、妙に納得した。寺山さんは、見世物小屋の存在を蓋をするもの、排除すべきものとは思っていなかったのだ。

舞台は作者の視点、と思っているからこそ感じたのは、
ただ"普通"に母を母として慕っている人には絶対に書けない話だ、ということ。
この作品には産みの母は結局出てこないし、最後に出てくる母親たちにも顔はない。
それはもしかしたら、寺山さんの中で産み育ての”普通”の母というものが概念でしかないのかもしれないと考えたりもした。
女である私には母=異性という感覚がないことや、私の母も必要以上に女を出さない人なので母=女という感覚も強くない。
しかし、逆に言えば女だからこそ撫子の心がわかってしまうような気がした。

撫子は母であるが女であり、女であるから母性も持っている。
実子であるせんさくを跡取りにするためにしんとくを排除しようとするのはせんさくの母としての気持ち。母性がそうさせるのだ。
しんとくは彼女にとって実子を阻む邪魔な存在だが、産みの母と間違われ縋りつかれて一瞬でも母の振りをしたのもまた母性ゆえではないだろうか。

しんとくが子とも男ともつかぬ存在なら、それはどちらでもあるということ。
子どもらしくただ母を慕うしんとくの姿で甘え縋られては簡単に振りほどけないと思うのだ。

けれど、どちらでもあるということはまた男でもあるということ。
その時の撫子は女だ。
しかし、彼等には”家”がありその家の中で二人は母と子でいなくてはならない。
撫子は継母であり所詮産みの母にはなれない。
母でなければ女でしかない。
家の中では女としてしんとく(子)を愛すわけにはいかない。愛せなければ憎むしかない。因習としがらみ全てが憎しみとなり、その憎しみは呪いとなる。

卒塔婆に釘を打ちつける撫子と、もがき苦しむしんとくの場面はもう圧巻でした。
藁人形を使うのも怖いけれど、しんとくの戒名が書かれた卒塔婆に釘を打つ方がよっぽど陰湿でおそろしくて悲しい。
憎しみかそれとも悲しみか、黒髪と朱襦袢を振り乱す撫子の姿は狂気そのもの。
そして、舞台上には彼ら二人だけではなく、しんとくと撫子がたくさんいるのだ。
どの撫子も釘を打ち、どのしんとくも苦しみもがく。
情念が具現化したような場面に、ただただ圧倒されるしかない。

終わらぬ家族合わせ、独り占めした母札、箒で掃き捨てられた家。
その結末。

「おかあさんもういちどぼくをにんしんしてください!」

その言葉はまるで愛の告白のようでもあり、女を呪う言葉にも聞こえた。
だって、もう一度妊娠することなどできるわけがないのだから。
できないと理解っていて言うのだ。
そもそも”もう一度”と言っているが、撫子はしんとくを妊娠したことがなければ産んでもいない。
盲目のしんとくは誰を見ているのか、もう狂っているのか。

「もういちど、もうにど、もうさんど、できることならお前を産みたい。おまえをにんしんしてやりたい」

それに応える撫子の言葉もまた、愛しい者への優しい返事のようでもあり、呪いをそっくりそのまま返す言葉のようでもある。

二人は最後にようやく抱き合うことができるが、撫子は一瞬で白髪になりしんとくは無数の”母”に食われてしまう。
壮絶な終わりを迎える物語だった。

 

これが、ただの母と息子の禁断の愛を描いたラブストーリーならもっと簡単に感想も出てきただろうが感想らしい感想は浮かんでこない。
継母と息子の決して女々しくないが陰湿な物語だ。
強い情念に満ち、哀れでもあり滑稽でもあり、けれど共感も覚えてしまう。
それは彼らが妖でも獣でも鬼でもなく、人間だからなのだろうと思う。狂いながらも愛し悲しみ憎むその心はまさしく人間のものだった。

しんとくが迷い込んだ地獄。
それは、あまり現実場面の混沌と変わりないように見えた。地獄へ通じる穴も、ゴム消しも、病気も。
この世は地獄と相違ないのかもしれない。だからどうにかして幸せのひとつでも手繰り寄せながら必死に生きていくしかない。

そうして手繰り寄せたのが、この作品だった。

37年の時を経ての再演。私にとっては、とてつもなく新しい刺激だった。